歴史修正主義に反論するには(2)

前回歴史修正主義に反論するには(1) - blupyの日記のつづき

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)

ノブオ:

先生、先生がいってたことって小田中氏の本ににほとんど書いてありました。

Dr.でっぷ:

そうだ。前の話はその本の紹介でもある。小田中氏の議論に全部賛成なわけではないけどね。

信子:

今日は科学の話もするんでしたね。

ノブオ:

歴史修正主義者のような構造主義的な考え方だと科学的事実でさえ、社会的構成物になってしまうのでは?というところからですよ。

でっぷ:

そういう極端な考え方もある。ようは、科学的事実といっても科学者共同体の中のルールや所作、形式といったものでつくられ、そうしてつくられた「事実」を社会的合意によって「真実」としているだけ、という立場。したがってわれわれが科学的事実と思っていること社会的に構成されたものにすぎない、ということになる。

ノブオ:

それじゃ、万有引力がない、という社会的な合意なら、ビルから飛び降りても死なないってこと?それはおかしい。うちらの認識がどうであれ、自然界の秩序、法則はそれとは独立に存在しているはずじゃないか。

でっぷ:

確かに科学的事実が紡ぎだされる間には、社会的なプロセスが存在している。でもここから科学的事実そのものが社会的な構成物だ、というのは飛躍だろう。

信子:

逆に、自然界の秩序が私たちの認識と独立には存在していない、という立場を観念論、というのよね。

でっぷ:

そう。ポイントは、自然の秩序がわれわれと独立か、という点とそれを人間が認識できるかという点は別なんだよ。上の極端な社会的構成主義は両方否定している。

信子:

でも、歴史修正主義者は必ずしもそうではない。

のブオ:

彼らはたぶん、自然の秩序はわれわれの認識と独立である、という点は認めるだろう。後者のそれを認識できるのかという点につっこんでいる。

信子:

人間は歴史を正しく認識できない、といってるのだからね。

でっぷ:

だから彼らの議論が即、科学的事実をも社会的構成物に帰す、というわけではないんだ。仮に前者の点で独立だという考えを反観念論と呼べば、彼らは一応そのなかにはいるはずだ。反観念論のなかで、自然界の秩序は認識できない、という立場を反実在論と呼べば、彼らは反実在論者ということになる。
自然界の秩序が独立して存在する 反観念論:それを認識できる  実在論
                             できない 反実在論 
              しない 観念論

信子:

ややっこしい。

ノブオ:

だとするとやはり、これは歴史だけでなく科学一般にもいえるはずだ。

でっぷ:

そうだね。彼らは、自然界の秩序、法則は存在するのだろうが、それについて我々が得られる知識は、真実かどうかわからない、という立場だ。

信子:

でもそれじゃあただの懐疑論者と変わらないじゃない。

でっぷ:

懐疑論者と異なるのは、彼ら反実在論者はすべての法則について「知らない」といってるわけではないということ。
彼らが懐疑的なのは直接観察できないものについてだけなんだよ。つまり、直接観察できるものはおっけー、と。

ノブオ:

じゃあ電子だとかクォークだとか目に見えないものは存在するかどうかわからない、という立場か。医学とか解剖学とか、観察可能な領域の学問なら、彼らと普通の科学者の考えも違わないということになるな。

信子:

でも何で観察不可能なものについて「知らない」といわなけばならないのかな。

ノブオ:

決定不完全性だろ。もっと勉強しろよ。

でっぷ:

決定不完全性とは、観察データからは理論が一つに定まらない、という議論だ。ここでは理論というのは、観察不可能なものをおいて観察可能なものを説明するものだとしよう。もし観察データから理論が一つに定まらないなら、観察不能なものも一つに定まらない。観察不能なものについてはいくつも可能性があり、真実がわかるわけでなない、ということになってしまう。たとえば、電子による説明が可能なら、電子+おれのじっちゃんの魂でも同様な説明は可能だ。

ノブオ:

な、ばかな。

でっぷ:

でも同じだけの観察データを説明することはできる。

信子:

でも両者が同程度に良い説明、ということにはならないんじゃない?どう考えても電子+おれのじっちゃんの魂のほうが冗長で使えなさそう。

でっぷ:

そう。観察不可能なものを想定する理論が複数存在しても、それを選び出す合理的基準が存在しない、というわけではない。最初にあげた極端な社会的構成主義者は、逆に決定不完全性原理から科学的事実を判別する合理的基準はない、と読み取り、それでも科学的事実が決まるとすればそれは社会的構成物にすぎない、という議論になっていった。ともかく、科学でさえ理論が複数存在し、真実は求まらない。

ノブオ:

なるほど、ということは歴史学そのものが「観察不能なものを想定する理論」であり、複数の物語を紡ぎだすものでしかない、ということになるわけだな。

信子:

それが歴史修正主義者たちがいっていることね。歴史を判別する合理的基準は存在しない。歴史学のいう「正当性」だってあやしい、と。

でっぷ:

合理的基準を出すのは難しいが、他の方法もあるだろう。今日のポイントは、歴史的修正主義者の議論を敷衍しても、科学的事実まで社会的構成物、ということには必ずしもならない、ということ。彼らは反実在論の立場であり、それを否定するのは容易でないということ。だからといって反実在論は絶対的な立場でもないこと。そろそろコンビニに行く時間だ。

ノブオ:

コンビニなんていつでもいけるじゃないすか。

でっぷ:

いや、バイトだ。

信子:

先生、教師といっても非常勤ですもんね。

based on 戸田山和久 「科学哲学の冒険」


次回へつづく