高校生のための科学的思考入門

 ここで言いたいのは結局、「科学的」とは態度の問題だということ。というと科学的に間違いだと判明したことを認めるかどうかという問題だと思う人もいるかもしれないが、むしろここではそれを問題にしてない。
 もちろん、科学的にありえない、もしくはわかってないことをさも証明されたかのように語ることはよくないことだと思う。仮にこれを大文字のサイエンスの問題としましょう。しかし、ここで言う態度の問題というのはもっと低次*1で、日常にも通じる基本的なこと*2
 それは科学的説明に必要な思考様式、と言い換えてもいいかもしれない。クリティカルシンキングでもいい。いろいろあるだろうが、エッセンスを抽出しろ、と言われれば私は次の2つだと思う。
1:なるべく事実に基づくこと
2:なるべく論理的であること
 1は、〇〇という論文、研究で証明された、と言うレベル*3よりかは、個々のデータ、論文で言えば各フィギュア(図)を指す。いくらディスカッションで壮大な結論を述べようと、それが1つ1つのデータによってサポートされてなけでば意味がない。また、個々で言う「事実」とは誰もが共有でき、論じる余地が極まて小さいものと言い換えることもできる。例えば、こういう実験データが得られたと言われば、(改竄でもしてない限り)解釈の余地はあれ、その結果は確かに得られたんだとみんな信じる。少なくともそういう決まりになっている。犯罪事件で言えば、「リビングで包丁が見つかった」とか「窓に〇〇の指紋がついていた」という個々の証拠のこと。日常でいえば、「今日山の手線が遅延した」「気象庁は降水確率を50%と発表した」といったものだ。何か主張するときにこうした誰もが認める事実から主発することは極まて重要だ。共通の基板がなければ、相手を自分と同じ考えにすることはおろか、理解してもらうのも困難になるからだ。
 2は、 まあ広義には1を含むわけだが、あえて分ければ、事実を出発点に筋道を立てて主張を展開すること。当たり前といえば当たり前だが、「事実から筋道を立てる」と言うのが以外と難しい。例えば次の文は論理的だろうか。

1)あきらめてはいけない。安西先生がそういったじゃん。

 これは論理的とは言えないだろう。権威主義だから、と思った人もいるだろうがそういう問題じゃない。「事実の確からしさ」が説明されてないから。以下の文と比べて欲しい。

2)あきらめてはいけない。安西先生がそういったじゃん。彼にしたがって間違っていたことなんてないでしょ。

 何が言いたいかわかるだろう。骨子を抜き出せば、「安西先生が〇〇といった。安西先生の言う事は正しい。したがって〇〇すべきだ。」ということ。つまり、根拠には事実と、この事実の正当性があり、両方が揃って初めて主張というものができあがる。さらにダメ押し。どれが論理的でないだろうか?

3)近所のおじさんが「明日は雨が降る」といった。だから明日は雨だと思う。

4)気象庁によれば、明日の降水確率は80%だ。だから明日は雨だと思う。

5)気象庁によれば、明日の降水確率は50%だ。だから明日は雨だと思う。

 見てのとおり4だけがまともな主張だ。3は、ソースが「近所のおじちゃん」ということで事実の正当性が非常に薄い。5は、降水確率50%というのは雨が降ると断言するほどの確率ではない。ここで察しの良い人は2つの疑問が浮かんだだろう。1つは、4(5も)も事実の正当性が明示されてないじゃないかと言う点。答えは簡単で、事実と異なり、正当性というのは明らかな場合省略できるから。気象庁のデータがまあまあ信頼性が高いのは公然の事実だろう。
 もう1つは、「そうとは限らないんじゃないか」という点。50%でも、かなりの確率だと感じる人もいるだろうし、気象庁だからってデータが信頼できるわけじゃないという考えもあるだろう。近所のおじちゃんが実は気象予報士かもしれない。しかし、私は、この点こそが科学に「どの主張も絶対的に正しいわけではない」という性質をもたらしていると考えている。フィギュアが同じでも解釈の仕方はたくさんあるかもしれない。あるいは全く別のデータがえられるかもしれない。事実は誰もが認めるもの。でも1つの事実の確からしさというのに幅がある。だから主張にただ1つの真実などない。
 もちろん、この2点はいつも、完全に満たされるということは殆どないと思う。科学においても、データの信頼性というのは人(動物)や計機の影響を受けるわけで、100%というわけではないし、1点の曇もない論理的な主張になってるとは限らない*4。ただ常にそうしようと言う態度こそが大切であって、そうでないものはいくら結果としては正しいことを言っていても科学的とは言えないはず。 
 ここまで読んでもらえれば私が日常にも通じると書いたことが理解されるはずだ。この2点を踏まえた主張というのは説得力がある。また、反論しようと思ったときは相手のこの2点のうちどちらかを崩せばいい。論理的=正しいこと、なんてことは全くない。論理的であることは正しいかどうかの検証のプロセスが担保されているに過ぎない。私がもっとも言いたいのは「科学的」というのは、教科書に書いてある最新の事実を知っているということ*5ではなく、こうした思考、あるいはそういった思考を心がける態度があるということだ。 
 
(追記)おもしろい!たしかにニセ科学に通じる問題でもある。http://d.hatena.ne.jp/terracao/20100212/1265913160



 Inspired http://d.hatena.ne.jp/jura03/20100212/p1*6

*1:十分条件ではないが、必要条件であるということ

*2:科学哲学のような高尚なことを言いたいのではない

*3:もちろん、このレベルも事実に成り得る、ということはこの説明を理解してればわかるはず。例えば(事実A、事実Aの正当性A'→主張A)という論理的主張があったとして、主張Aが当然のものとして認められれば事実となり、(主張A、主張Aの正当性A'→主張B)と言うようにどんどん発展していく。だから1つのフィギュアも事実だし、1つの論文も事実に成り得る。エビデンスベースドというのもこの考えの延長だろう。

*4:もちろん、数学とかは別ですが

*5:もちろん、これはこれで大事なことだ!

*6:だから私は科学的正しさに酔っていることが問題とは考えてません。むしろ、もっとも基礎的な「科学的」な態度を貫徹できてないのが問題だというのが私の観点。科学的であることが好きなのか、正しいことが好きなのか。あるいは過程の正しさを大事にするのか、それとも結果の正しさか。