福岡伸一の何が問題なのかわからない人へ(2)

 さて、前回の記事(福岡伸一の何が問題なのかわからない人へ - blupyの日記)のつづき
今回は別の問題点をみてみよう。
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-1ae2.html

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090420bk03.htm
もっともダーウィンの説もあくまで仮説に過ぎず、五本指が私たちの形質になった真の理由を証明できるわけじゃありません。たしかに四本指族と六本指族がいて、その間で五本指族が生き残ったという物的証拠は何もないわけですから。

 なにが問題かわかるだろうか?
一言でいえば、各論と総論をごっちゃにしているのだ。福岡は5本指の進化の物的証拠がないから進化論は仮説にすぎないという。しかし福岡の論法はどこかおかしい。
 5本指の進化は完全に各論だ。一方、進化論はそれらを束ねるメタレベルの総論だ。5本指がどうように進化してきたかという問いと、生物が自然選択を通して進化してきたかという問いは別物でしょ。各論の物的証拠がそろわないからといって、メタレベルの総論まで確証が不十分だということにはならない。進化論のような総論はこれまで膨大な各論で証明されてきたのだから、解明がすすんでない各論がいくつかあると指摘するだけでは、理論としての説明力を批判したことにはならない。
 いやいや総論が確実なものなら各論もすべて実証、説明されているはずだ、と思う人がいるかもしれない。しかし、もしそうなら生物学はこれ以上研究する余地がないという状態になっているということだ。究極的にはそういう意味で、学問には「仮説」しか存在しないのかもしれない。しかし、仮説のいくつかは「定説」とよばれ、次の研究の土台にされる。だから学問にはここまでは言えるが、ここからは言えないという性質がある。
 たとえば仮にあなたが血液の研究がまだ進んでいない時代にいるとしよう。血液の中身の成分はまだ解明されていない。しかし、人間に血液が通っているのは明らかだろう。福岡の論法は、血液中の成分で赤血球が酸素を運んでいるのかまだ実証できてない。よって人間の体を血液が循環しているというのは仮説にすぎない、といってるようなものだ。
 結局、福岡伸一は5本指の実証のはなしと論進化論というレイヤーの異なることをごっちゃにして、進化論の説明力を過剰に低く見せている。