科学的・合理的精神をより普及せしめることによって社会を是正しなけりゃならん

これ以上やってもしょうがないので、ニセ科学一般について述べるのはこれで最後にする。
あとたぶんこれに対する反応には応答しないのであしからず(これから出かけて反応できないというのもふくめて)。

「批判」と「対策」

waveriderの日記 ニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判について

したがって、「批判 vs 批判」の問題は、ニセ科学批判者の態度や振る舞いの問題に帰結する。

 そのとおり。私が知る限り、ニセ科学批判批判は、本人の自覚に関係なく一貫して「態度や振る舞い」の話だった。言い方こそ異なれ、あんたちょっとえらそうね、といってるだけ。一方、養護側からは、「はい、えらそうですみません。気をつけます」といった反応はついに見られなかった。
 その意味でニセ科学批判批判は失敗してる。それもそのはず、「態度の戒め」自体が、上司とか権力ある立場の人からでなければ効果がないからだ。たとえ友人だったとしても態度や振る舞いを批判されるのは不愉快である。まして他人であるニセ科学批判側の人間が怒るのも自然といえる。
 でもこの不毛な「態度の問題」は、「批判」と「対策」の溝を明らかにした。ニセ科学の嘘をネットの片隅で指摘したからといってニセ科学の被害者が救われるわけではない。なのに私(たち)は、ニセ科学の蔓延を防ごうとしています、みたいな態度をとる。それは偉そうだというのだ。
 対して当然様々な反論が来る。Archivesapjさんいわく、ニセ科学対策として、(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。(2)景表法や特商法からその違法性を指摘をする。といったものをあげている。
 ポイントは個別の言説の嘘の指摘がそれだけニセ科学蔓延に有効かという点。発言者の影響力にもよるが、ネットでの批判は限界がある。たとえ多くの読者を得られたとしても、それが被害者に届いているかわからない。届いてもそれによってニセ科学から解放されるとかなんてわからない。
 これに対する養護側の反論は大きく二種類あった。間違いを間違いを指摘してるだけで、「対策」は目的ではないのだから何が悪いというもの。あとは効果が不明でも「批判」に意味がないわけではないというものだ。両者に共通するのは、さらなる「対策」をとらない理由をあげている点だ。
 圧倒的に前者の方が多かった気がする。たしかに論理的には、そもそも「対策」をとろうとしてない、というのは有力な批判になる。しかし、これは「対策」を自分でとるほどニセ科学を深刻だととらえていないという現れでもある。まさにうわべの危機感と隠れた優越感の二重構造。
 しかしより重要なのは、後者の、「批判」も「対策」になるかという点だ。上記の、「間違いを指摘」⇒「間違いをしる」⇒「ニセ科学にひっかからない」というプロセスを踏む人がどれだけいるのか、ということ。当然「間違いを指摘」をブログでやるなら極めて限定的なものにしかならない。
 じゃあもっと大々的にやればよいのか。言説の規模を問題にする限り、エイズの予防などと同じであとはマーケティングの問題。ACのCMのようにそれなりメディアにそれなりの予算をかけて提示をしてキャンペーンを行う。そこまでやる必要がない、というのなら危機意識もその程度のもの。
 そのためには団体とか有名人をつくり、メディアに報道させ、政治家や官僚に圧力をかけなけらばならない。拉致被害者家族の会みたいな、ちょうどあんな感じになればベストだ。これは個人としてかかわれないことを意味しない。今ある政治団体や消費者団体も「個人」が形成しているのだ。
 もちろん、これはニセ科学を批判する人はみな政治運動をやんなきゃ意味がない、といいたいわけではない。本格的な「対策」としては、もっとやらなければならない点があり、ブログでの批判が限定的だという点に自覚的であるべきだ。意味がある「批判」程度では「対策」には程遠い。
 以上、「対策」と「批判」の話はおしまい。「批判」で満足して「対策」の必要性すら認識してない人は、今日の雑談
 が指摘してるように、言うほどの危機意識ってのはふるまいからは感じられない。、前者の中には、ニセ科学批判にコミットしてるとかいいながら、その実ブクマで関連エントリを追ってるだけだったり、そのくせ説教くさかったりする人もいる。
 「対策」の必要を感じる人は、ネットでも「対策」を目的に据えるのなら、ニセ科学wikiのようなものつくるならともかく、単にブログで思ったことを綴るだけで「対策」をしてると主張するのはやや無理がある。また自分たちがリアルでの運動家を持たないことの欠落性をちゃんと認識すべき。

 個人的な話をいえば、私は「対策」ではなく「批判」しかやってないつもりだ。もちろん「対策」になればうれしいが、私はそのためにブログを書いてるわけではない。とくに目的を厳密に定めず思ったことを適当に書いている。間違ったことや嘘を指摘するのが憂さ晴らしになるからだ。
 ちょっと心理学の用語を使えば、私にとって科学ぶった言説のうそを指摘するのはそれだけで強化子(報酬)として機能しているといえる。でもそれだけの話だ。プロフィールにも書いてあるが、このブログを他の人や社会に役立てようなんて目的で書いてるわけじゃない。
 大半のブログなんてそんなものだと認識してる。書くこと自体が一定の目的を満たす。もちろん他人の役に立つようなスタイルで書いてる人もたくさんいるけど、それは目的とスタイルが一致してはいじめて意味をなす。だとしても目的を明示せずに、結果としてそうなってるケースも多い。
 それでも大義としてニセ科学の蔓延の阻止とか掲げるのは素晴らしいけど、それ相応の振る舞いが要求される。だから多くの人は「間違いを指摘してなにが悪い」という方にいった。そういううわべの危機感から批判をしてる(と主張している?)人たちより100倍ましな問題意識を持っているのだろう。
 じゃあ何が私と「ただ間違い指摘」派をわかるかというと、それを社会的にどれだけ重要だと(表面的に)思っているかだろう。私は自分の批判対象が自分にとって不快であることは認識しているが、社会的にどれだけ問題かはあまり考えていない。当然他人にこの問題の理解を要求することもない。

「問題」と「害」

あと仮に本格的な「対策」をとるにしても、問題フォーカスと害フォーカスの2種類ある。ニセ科学に限らず問題というのはその害とセットで語られる。深刻な害を生まないならその問題を無理して解決しなくてもよいからだ。その点菊地氏がニセ科学の害を強調するのもうなずける。
 つまり問題(原因)⇒害
 しかし、場合によって解決方法は異なる。たしかに原因が一つに特定される問題の場合、問題から解決しようとする方が早い。しかし、問題の原因が特定されず複数の害を起こす場合は別だ。解決にあたって問題でまとめるより、害でまとめて処理する方が早いかもしれない。
 たとえば、血液型性格診断はたしかにニセ科学の問題である。でもその深刻な害として雇用差別があげられる。これはニセ科学として対策と雇用差別の害に対する対策の二方面があるだろう。新しい雇用差別として対策を打った方がこれまでの雇用差別の対策の応用として解決が早いかも知れない。
 以前このようなことを書いていた。ニセ科学の定義 - blupyの日記

ここら辺、前から考えてたことに関連する。後者の定義だと、血液型診断やマイナスイオンニセ科学でなくなる、と上に書いた。じゃあ何なのだろうかと考えると、おそらく「間違った科学」ということになるのだろう。科学でないか、という点ではほかのまともな科学とはわけず、「間違い」かどうかでわけている。結局、「間違い」だという点は、菊池氏と変わらないが、科学の内側からか外側からかが異なる。つまり、一部の科学哲学者は「間違い」を科学に内在させているのだ。これが「間違いはニセ科学じゃない」ということの意味だろう。もちろん、だから科学哲学者の定義のほうが正しいというわけではないし、むしろどちらかといえば一般的な感覚にフィットするのは菊池氏の方であろう。それに単に「間違い」というより、「ニセ科学」という方がインパクトがある。
 それでも後者の定義の、あえて良い点をあげれば、詐欺犯罪などに「ニセ科学」という別のカテゴリーをつくらないことだろう。(もっともこれは悪い点でもあるかもしれないが。)私はかねてから「ニセ科学」の大きな問題点の一つは、詐欺など消費者をターゲットにした犯罪に利用されやすい点だと考えていた。この点をニセ科学の害の一つして指摘する人も多い。しかし、もし解決を考えるなら、他の消費者問題と分ける必要があるのだろうか。「騙されている」点は同じだし、ニセ科学特有の解決しずらさがあるとも思えない。人間の信じやすい心理に付け込んで、嘘をついてもうけている点で同じだ。そこからどのように詐欺から脱却させるかについて、ニセ科学を利用した詐欺とそうでない詐欺に違いはないだろう。また、新しくニセ科学の団体を結成するより、すでにある消費者団体などを利用した方がたやすい。ようは、こんな新たな消費者問題もあるよとアピールするのだ。
 血液型が雇用差別につながる、というのも同様な考え方ができる。雇用差別のひとつであることを強調して他の雇用差別と一緒に解決を図ってもらう。巨人ファンだけを優先して雇っている会社もあるかもしれない。偏見にもとずく雇用差別というのはもっとあるだろう。
 問題は多様でも害の種類は絞られる。だったら問題ではなく害の種類にフォーカスをあてて解決を図る方がもしかしたら容易かもしれない。もし害の解決を最優先にしたいのならば、必ずしもニセ科学というカテゴリーが有効とは限らない。

合理的精神が充ちた「社会」を目指すのか、「国家」で十分か

 結局、上記のように「ニセ科学のウソを指摘して、みんなに知らせる」という戦略を支持する人の背景には、「科学的・合理的精神をより普及せしめることによって社会を是正しなけりゃならん」という価値観が見え隠れする。ならばあとはマーケティングとか布教戦略の問題でしかない。
 あえて上記の本格的な「対策」の例にあげなかったが、この<布教>の観点からも、もっとも有効なのは教育だ。中学校か高校で主要なニセ科学について理科か総合学習の一部の時間を割いて教えればよい。すでに成人した人には意味がないが長期的にはもっとも有効かつ効率的の方法の一つだ。
 「もっとも」と書いたが、このほかにも有力な方法があると考えるか、これ以上必要がないと考えるかで立場が分かれる。前者が「科学的精神の普及による社会(改革)」を目指す立場になる。後者は、<権威を生みだすシステム>を必要に応じて調節する立場になる。
 権威を生みだすシステムとは、学校とか公的機関とマスメディアのような、人にそれが正しいと自然に思わせる力をもっているとことのこと。マスメディアもメディアリテラシーを出すまでもなく、それが正しいと信じている人は今では少数だろう。公的機関のお墨付きがもっぱら問題になる。
 以降は、公的部門だけに限ったものを<権威を生みだすシステム>と表現する。公的機関が科学を重視するのは、政治と宗教の分離という歴史を考えると当然のこと。権威の源泉は宗教から国家に以降した。逆にいえば、公的部門の外では、宗教など科学的でないものでも存在が許された。
 つまり近代国家のなりたちからいって公的部門がなんでもよいというわけにはいかないが、個人がいかがわしいものを信じる自由はあるわけ。これに対し、いかがわしいものにひっかかっている個人にまで科学的・合理的精神を普及させようと考えるか、公的部門だけで十分だと考えるか。
 もし公的部門だけで十分と考えるなら、ある程度マスメディアをふくめ、他人がニセ科学を含めいかがわしいものを信じるのを認めるということだ。ここで他人に口をだすならパターナリズムにほかならない。たとえ社会にそういったものがはびころうと公的部門がちゃんとしてればよいや、と。
 もちろん、公的部門にいかがわしいものが入るのを批判する、ということをしている人もいるだろう。針灸を医者にやらさてよいかとか。でもそれは、科学的精神の充ちた社会を目指すというのとはちょっと違う。菊地氏などニセ科学批判者は「国家」ではなく、「社会」を目指している。
 科学的精神に満ちた「社会」を目指すか、「国家(公的部門)」で満足するか。前者の場合、きりがない。ニセ科学なんぞ原理的にに科学の数だけ起こりえるからだ。それを信じる個人もそれぞれ事情が異なる。それでも目指すなら相当強力な価値観に基づいた「運動」にならざるを得ないだろう。
 いかがわしいものを「社会」から排除することは、「国家」から排除することより重要か。もちろん前者は後者を含むのだろうが、後者は国家の成り立ちを考えれば、わりと自然だ。一見科学だが科学的でないものに国家のお墨付きを与えたり、学校で教えるのはよくないことは誰もが認めよう。
 「社会」にはニセ科学を信じる人がいて当然と思うか。宗教ならよいと思う人は多い。でも創造説のように宗教の根幹には嘘が混じる。ニセ科学を膨らませたのが宗教という言い方もできる。この立場を突き詰めればドーキンスのように宗教まで否定するのが自然であり、急進性を免れない。
 「社会」から不合理を排除するのは、正しい事実の指摘というスタイルをとる限りその急進性は隠れる。でもじゃあなんで排除しなきゃいけないか動機の奇妙さは残る。水伝が詐欺に利用され、血液型が雇用差別につながる?でもいままで詐欺や雇用差別の問題点を論じてきた人がどれだけいる?
 だから「不合理なものを社会から排除する」という方向性をちゃんと打ち出した方良いと思う。それってどれだけ重要かという疑問は払拭できないし、その急進性も否定できなくなる。そうでないなら深刻とも思ってない害と結びつけてニセ科学を重大に見せる態度が批判され続けることは必然。

科学者とニセ科学

 じゃあ、「社会」とか「国家」とかの大義の観点のみからニセ科学批判をやってるかというとそうでもない。http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=2723 http://www.mumumu.org/~viking/blog-wp/?p=2695

「この活動は我々の学識をもっと広く社会に共有してもらい、神経科学のリテラシーを築く契機となるし、我々の科学的研究に対してよりしっかりとした支援が必要だという世論を形成することにもつながる」

つまり自分の研究の予算の獲得のため、というのが別の大きな動機だ。vikingさんが憂慮するのはこのままニセ脳科学がはびこり、やがて神経科学そのものがいかがわしいものとして捨てられていくのではないかということ。神経科学者に限らず、予算獲得への不理解は放置できない問題のはずだ。
 また、これは単に間違いを批判するだけでは不十分だという。何が正しい神経科学か、研究の成果をわかりやすく説明するという難しい課題とセットでなければ正しい理解へつながらない。分野が細分化した今、これはその分野の一線の研究者とはいわずともその専門家がやるのが適当だろう。
 結局、ニセ科学批判として2種類の道がある。急進的な「運動」であることを自覚したうえで批判しつつ、「対策」も考えていくか。その分野の科学者が予算獲得のために正しい知識の提供とともにに間違った言説を検証していくか。ブログではミニ運動家かミニ科学者として批判することになる。
 個人的には後者がどんどん増えてほしい。これは単に自然科学者による批判をさしているわけでわなく、その分野の専門家でなければ意味がない。基礎分野の自然科学者が、それが唯一の社会とかかわる方法であるという理由から、ニセ科学を批判してみるというのではなくて。

暇を持て余した、凡人たちの、遊び

 あとは、崇高な目的など掲げず、私のような憂さ晴らしとしてやるかしかない。しょせんブログなんて暇を持て余した凡人たちの遊ビにすぎない*1のだから。それでも私は真面目にやってます、という人はいるかもしれないが、<真面目に>遊びをやってるだけなのだから偉そうにしないでくれ。

*1:とかいう私もこのエントリだけで5000字以上書いてしまったorz