科学的探究の難しさ

M・リドレー「やわらかな遺伝子」(1) - 日々平安録

「心」が主観、「体」が客観といってしまうとこぼれ落ちてしまうものが多いであろうが、科学は客体を対象にすることで成立してきた。遺伝子は客体の側にある。その客体の側から「心」を立ち上げていく、そうすればそれは科学の枠内に収まる、それが本書や「心を生みだす遺伝子」のとる戦略である。ダーウィンを受けいれて、しかも「いい加減」ではないやりかたで「心」を考えていこうとする場合には、そうせざるをえないのだろうと思われる。
 しかしそこで立ちあらわれてきた「心」がわれれれ、日常もちいていいる「こころ」という言葉とどの程度重なるのかは何ともいえない。《ヒト以外の動物の脳にも理性や思考がある》とするのはキリスト教的偏見、デカルト的偏見をもたなければ、猫や犬をみているだけでも明らかなのであり、《チンパンジーたちのあいだの野心や嫉妬、欺瞞や愛情》をみなければ、それに気がつかないというのも随分と変なことであると思われるが(欺瞞をおこなえるかどうかが「こころ」の存在のバロメーターであるとする見解はあるらしい。犬や猫が他犬や他猫を欺こうとするのかという問題である)、しかし《野心や嫉妬、欺瞞や愛情》といったものは、他人をあるいはチンパンジーを観察してはじめてわかることではなく、おのれを顧みるだけで誰にでもわかることなのである。
 医療は身体の変調をとりあつかう。しかし変調を理解するためには、正常が理解できなくてはならない。われわれの血糖がどのようなメカニズムで一定範囲に維持されるようにできているのかについては膨大な知見が集積されている。しかしわれわれの「こころ」がどうようにして一定範囲に保たれているのか(そもそも一定範囲とはどのような範囲なのか)についてはほとんどまだ何も知られていないに等しい。「こころ」のホメオスターシスの維持の機構ということは、未知の分野として残されているといってよい。
 それに少しでも迫っていくためには本書あるいは「心を生みだす遺伝子」のような戦略は有効なのであろうと思う。しかし、それがわれわれの主観である「心」を明らかにしてくれるとは多くのひとには思えないのではないかと思う。

 もっといえば犬や猫に人と同じこころを見出そうすること自体がキリスト教的である。これは動物の擬人化にほかならないのだから。こころを<ヒトのこころ>と定義すれば、当然それと同じものは動物にはない。しかし、そうやって定義することは一つのやり方にすぎないし、きわめて人間中心的な考えだ。進化史上、ヒトと動物は連続的なものなら、こころの進化もまた連続的であるはず。それぞれ現在まで適応的に進化してきた以上、動物のこころも、どんなに単純であれ進化の産物だ。進化の産物としてこころを探究するなら、こころを<人間のこころ>と定義する必要はない。
  
 遺伝の観点以外にも人のこころを客観的対象として研究する方法はいくらでもあるかもしれない。しかし、遺伝を含む進化まで考えれば、それが案外遠くてもっとも近い方法の一つだろう。こころを科学的に探究しなければ、何かに還元しなければならない。心理学を科学的にやりたいのならばそれはいたしかたない。
 でもそれはわれわれがこころの学問に求めるものとちょっと違う。