結果としての権威とプロセスとしての権威

だから論理的ではないでしょ?
今日の雑談

害があるかどうかを批判が許容される条件に入れているが、それだと結局社会的影響について科学者が判断することになるのではないか→科学に対するクレジットの不当な取得という場合にはそういう判断に踏み込まなくてもよい

とくに、後の件については問題で「社会的影響」を見積もらないと、批判することによる利益とリスクのバランスが見通せない。それこそ優先順位にも関わる問題だから、「そういう判断に踏み込まなくてもよい」はずがない。「クレジットの不当な取得」みたいな一般論では、意味ないわけで。菊池先生が「優先順位問題」として開き直ったのも、このあたりで行き詰ったのかもしれないね。

 
こういう細かいところ、でも重要な部分で議論を平気でかっとばすんだから、論理的ではない部分があるんだよね。私が思うに合理性を信奉しすぎているという以前に、合理性を徹底できてないのが問題だと思うんですよ。
 私は科学的事実よりもそれを得るプロセスの方が重要だと思っています。もちろん事実を共有することも重要で、だからこそ学校がある。でも、科学の思考様式、みたいなの方がより大事じゃないですか。だって思考様式が伴っていなかったら単に誰かの権威を受け入れているに過ぎない訳ですから。
たとえばこの記事。NHKスペシャル「女と男〜最新科学が読み解く性〜」 - blupyの日記
既存の常識から考えると結論がおかしい、そこまでわかっていないはずだと言う理由で批判されていたけど、一応そのなんとかという研究者の論文になっていることなんだよんね。定説に反する、だからおかしい、というのだとすればその主張は科学的思考に基づいるとは言えない。科学的事実に基づいている、とは言えるかもしれないが*1。たとえば、たぶん専門の分野の科学者ならきちんとした議論を踏んで「この解釈はごういんだ」とか「アーチファクトじゃないか」なんてことはいえるわけだけど、そういう議論こそすべきであって、既存の定説に合わないとか、ショボイ雑誌に載っただけいうのが出発点だとすれば、単なる権威主義でしょ。
 結果として科学的でないということを共有することが、プロセスある議論より優先するとしたら、ちょっとそれはおかいしと思うわけです。どういう批判の仕方にせよ、間違ったことを指摘することはいいことだ、となってしまう、それは科学的じゃないですよ。私がそれを知ってげんなりしたのがこの問題水伝は「言語の恣意性」の観点から検証不可能とはいえない(3/01追加) - blupyの日記この議論自体もあれだったど、さらにとにかく水伝を批判することが重要であって、それを邪魔するやつは敵だ的な奴が出てきたのは、驚きでしたね。
 だから、私が一貫して批判してきたのが「権威とコミニュケーションとコミュニティ」の問題だったわけです。いや、今思えば単なるコミュニティの問題だったかも。もう無駄だからしないけど。
 

*1:この研究者というより、NHKに対する批判だったと思うけど

高校生のための科学的思考入門

 ここで言いたいのは結局、「科学的」とは態度の問題だということ。というと科学的に間違いだと判明したことを認めるかどうかという問題だと思う人もいるかもしれないが、むしろここではそれを問題にしてない。
 もちろん、科学的にありえない、もしくはわかってないことをさも証明されたかのように語ることはよくないことだと思う。仮にこれを大文字のサイエンスの問題としましょう。しかし、ここで言う態度の問題というのはもっと低次*1で、日常にも通じる基本的なこと*2
 それは科学的説明に必要な思考様式、と言い換えてもいいかもしれない。クリティカルシンキングでもいい。いろいろあるだろうが、エッセンスを抽出しろ、と言われれば私は次の2つだと思う。
1:なるべく事実に基づくこと
2:なるべく論理的であること
 1は、〇〇という論文、研究で証明された、と言うレベル*3よりかは、個々のデータ、論文で言えば各フィギュア(図)を指す。いくらディスカッションで壮大な結論を述べようと、それが1つ1つのデータによってサポートされてなけでば意味がない。また、個々で言う「事実」とは誰もが共有でき、論じる余地が極まて小さいものと言い換えることもできる。例えば、こういう実験データが得られたと言われば、(改竄でもしてない限り)解釈の余地はあれ、その結果は確かに得られたんだとみんな信じる。少なくともそういう決まりになっている。犯罪事件で言えば、「リビングで包丁が見つかった」とか「窓に〇〇の指紋がついていた」という個々の証拠のこと。日常でいえば、「今日山の手線が遅延した」「気象庁は降水確率を50%と発表した」といったものだ。何か主張するときにこうした誰もが認める事実から主発することは極まて重要だ。共通の基板がなければ、相手を自分と同じ考えにすることはおろか、理解してもらうのも困難になるからだ。
 2は、 まあ広義には1を含むわけだが、あえて分ければ、事実を出発点に筋道を立てて主張を展開すること。当たり前といえば当たり前だが、「事実から筋道を立てる」と言うのが以外と難しい。例えば次の文は論理的だろうか。

1)あきらめてはいけない。安西先生がそういったじゃん。

 これは論理的とは言えないだろう。権威主義だから、と思った人もいるだろうがそういう問題じゃない。「事実の確からしさ」が説明されてないから。以下の文と比べて欲しい。

2)あきらめてはいけない。安西先生がそういったじゃん。彼にしたがって間違っていたことなんてないでしょ。

 何が言いたいかわかるだろう。骨子を抜き出せば、「安西先生が〇〇といった。安西先生の言う事は正しい。したがって〇〇すべきだ。」ということ。つまり、根拠には事実と、この事実の正当性があり、両方が揃って初めて主張というものができあがる。さらにダメ押し。どれが論理的でないだろうか?

3)近所のおじさんが「明日は雨が降る」といった。だから明日は雨だと思う。

4)気象庁によれば、明日の降水確率は80%だ。だから明日は雨だと思う。

5)気象庁によれば、明日の降水確率は50%だ。だから明日は雨だと思う。

 見てのとおり4だけがまともな主張だ。3は、ソースが「近所のおじちゃん」ということで事実の正当性が非常に薄い。5は、降水確率50%というのは雨が降ると断言するほどの確率ではない。ここで察しの良い人は2つの疑問が浮かんだだろう。1つは、4(5も)も事実の正当性が明示されてないじゃないかと言う点。答えは簡単で、事実と異なり、正当性というのは明らかな場合省略できるから。気象庁のデータがまあまあ信頼性が高いのは公然の事実だろう。
 もう1つは、「そうとは限らないんじゃないか」という点。50%でも、かなりの確率だと感じる人もいるだろうし、気象庁だからってデータが信頼できるわけじゃないという考えもあるだろう。近所のおじちゃんが実は気象予報士かもしれない。しかし、私は、この点こそが科学に「どの主張も絶対的に正しいわけではない」という性質をもたらしていると考えている。フィギュアが同じでも解釈の仕方はたくさんあるかもしれない。あるいは全く別のデータがえられるかもしれない。事実は誰もが認めるもの。でも1つの事実の確からしさというのに幅がある。だから主張にただ1つの真実などない。
 もちろん、この2点はいつも、完全に満たされるということは殆どないと思う。科学においても、データの信頼性というのは人(動物)や計機の影響を受けるわけで、100%というわけではないし、1点の曇もない論理的な主張になってるとは限らない*4。ただ常にそうしようと言う態度こそが大切であって、そうでないものはいくら結果としては正しいことを言っていても科学的とは言えないはず。 
 ここまで読んでもらえれば私が日常にも通じると書いたことが理解されるはずだ。この2点を踏まえた主張というのは説得力がある。また、反論しようと思ったときは相手のこの2点のうちどちらかを崩せばいい。論理的=正しいこと、なんてことは全くない。論理的であることは正しいかどうかの検証のプロセスが担保されているに過ぎない。私がもっとも言いたいのは「科学的」というのは、教科書に書いてある最新の事実を知っているということ*5ではなく、こうした思考、あるいはそういった思考を心がける態度があるということだ。 
 
(追記)おもしろい!たしかにニセ科学に通じる問題でもある。http://d.hatena.ne.jp/terracao/20100212/1265913160



 Inspired http://d.hatena.ne.jp/jura03/20100212/p1*6

*1:十分条件ではないが、必要条件であるということ

*2:科学哲学のような高尚なことを言いたいのではない

*3:もちろん、このレベルも事実に成り得る、ということはこの説明を理解してればわかるはず。例えば(事実A、事実Aの正当性A'→主張A)という論理的主張があったとして、主張Aが当然のものとして認められれば事実となり、(主張A、主張Aの正当性A'→主張B)と言うようにどんどん発展していく。だから1つのフィギュアも事実だし、1つの論文も事実に成り得る。エビデンスベースドというのもこの考えの延長だろう。

*4:もちろん、数学とかは別ですが

*5:もちろん、これはこれで大事なことだ!

*6:だから私は科学的正しさに酔っていることが問題とは考えてません。むしろ、もっとも基礎的な「科学的」な態度を貫徹できてないのが問題だというのが私の観点。科学的であることが好きなのか、正しいことが好きなのか。あるいは過程の正しさを大事にするのか、それとも結果の正しさか。

カラスはチンパンジーよりも賢い(6歳児並みに賢い)/それはキャノンマーケティング

Rooks perceive support relations similar to six-month-old babies.
Bird CD, Emery NJ.
Proc Biol Sci. 2010 Jan 7;277(1678):147-51. Epub 2009 Oct 7.
http://rspb.royalsocietypublishing.org/content/277/1678/147.long
 ニューカレドニアカラスやミヤマガラスなどカラス科の鳥のいくかは、世界の物理的な関係、成り立ちを理解して問題解決をすることが知られている。

今回は、支えという物理的な関係をどれだけ理解できているのか試したようだ。6歳未満の子供でも、手を離したら落ちてしまうといった動的な支えの関係を理解しているが、静的な支えの関係は6歳にならなければ理解できない。この研究では、ミヤマガラス*1が静的な支えも理解できたという。これはチンパンジーにはできなかったことで、この点ではカラスがチンパンジーに上回ったともいえるかもしれない。
 支えの関係が解できていったい何になる、と思う人もいるかもしれないが、支えの理解は物理的な世界における目的ー結果関係や因果関係といったものの理解を意味する。因果関係といった一種の思考の枠組みがしっかりしているということは賢さの一つの指標になるのではないだろうか。
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うまい宣伝手法:キヤノンマーケティングの採用時期変更知らせ(タイトル変更済み) - 発声練習
それはキャノンじゃなくて、子会社のキャノンマーケティングでは。両者はれっきとした別の会社です。HPを見る限りキャノンも採用計画をまだ発表してないようですが、上記のような採用時期変更は宣言してないですよ。
 「新卒採用に物申す」って体裁よくしてるけど、結局これは事実上の11年度採用見送り宣言でしょ。夏までに国内市場が急激に回復するとは思えないし。キャノンそのものはそこまで業績悪くない、というか悪くても採用を止めるほど体力のない企業ではないでしょう。低迷する国内市場を対象とするキャノンマーケティングとは異なり、回復ぎみの海外市場もターゲットのキャノンが採用停止だとそれは会社としてそうとうやばいかと。

*1:ヨーロッパに普通に見られるカラス

福岡伸一の何が問題なのかわからない人へ(2)

 さて、前回の記事(福岡伸一の何が問題なのかわからない人へ - blupyの日記)のつづき
今回は別の問題点をみてみよう。
http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-1ae2.html

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090420bk03.htm
もっともダーウィンの説もあくまで仮説に過ぎず、五本指が私たちの形質になった真の理由を証明できるわけじゃありません。たしかに四本指族と六本指族がいて、その間で五本指族が生き残ったという物的証拠は何もないわけですから。

 なにが問題かわかるだろうか?
一言でいえば、各論と総論をごっちゃにしているのだ。福岡は5本指の進化の物的証拠がないから進化論は仮説にすぎないという。しかし福岡の論法はどこかおかしい。
 5本指の進化は完全に各論だ。一方、進化論はそれらを束ねるメタレベルの総論だ。5本指がどうように進化してきたかという問いと、生物が自然選択を通して進化してきたかという問いは別物でしょ。各論の物的証拠がそろわないからといって、メタレベルの総論まで確証が不十分だということにはならない。進化論のような総論はこれまで膨大な各論で証明されてきたのだから、解明がすすんでない各論がいくつかあると指摘するだけでは、理論としての説明力を批判したことにはならない。
 いやいや総論が確実なものなら各論もすべて実証、説明されているはずだ、と思う人がいるかもしれない。しかし、もしそうなら生物学はこれ以上研究する余地がないという状態になっているということだ。究極的にはそういう意味で、学問には「仮説」しか存在しないのかもしれない。しかし、仮説のいくつかは「定説」とよばれ、次の研究の土台にされる。だから学問にはここまでは言えるが、ここからは言えないという性質がある。
 たとえば仮にあなたが血液の研究がまだ進んでいない時代にいるとしよう。血液の中身の成分はまだ解明されていない。しかし、人間に血液が通っているのは明らかだろう。福岡の論法は、血液中の成分で赤血球が酸素を運んでいるのかまだ実証できてない。よって人間の体を血液が循環しているというのは仮説にすぎない、といってるようなものだ。
 結局、福岡伸一は5本指の実証のはなしと論進化論というレイヤーの異なることをごっちゃにして、進化論の説明力を過剰に低く見せている。
 

今年の自薦エントリランキング

 気付けば、今年から始めたこのブログであったが、それなりの数を書いてきた。読みかえしてみるとなんて読みづらいAND/ORおバカなこと書いているというエントリが多数である一方、あとで見返して(個人的に)おもしろいと思えるものもいくつかあったので適当にランク付け&カテゴリー別にリストアップしとく。とりあえず年が明けるので乗せるだけ。こうして見ると対象は拡散しているが、動機としてはそれって違うんじゃないという素朴な違和感を表明したかったとうだけのものが多い。

1位歴史修正主義に反論するには(1) - blupyの日記
1位歴史修正主義に反論するには(2) - blupyの日記
 同立で1位。謎の人物たちの対話形式で書いたけど、これは私の思考のベースとして今でも読みかえすと参考になる(あくまで自分のため!)。歴史修正主義に関係なく、科学哲学の軽い入門になっているとも思う。
3位それって「劣ってない」んじゃなくて「優れている」のでは? - blupyの日記
 「ゆとり世代」という言葉を使ったことがある人におすすめ。実は学力低下どころか上がってたというはなし。
4位匿名の研究者はしょせん匿名論者 - blupyの日記
 ぱっと読んで論旨が一貫してたのはこれだった。ネットでの匿名の専門家の権威についてさっぱりと否定している。
5位東大合格の80%は、家系に東大出身がいるかどうかできまる? - blupyの日記
 遺伝と学力の話。理解しづらい構成だけど書いてる内容はまあそうだよねという話だと思う。

 以下カテゴリ−事に次点。
宗教・倫理
中絶すると破門〜従ってない教義に文句をいう意味不明さ - blupyの日記
イルカを殺すのは悪か? - blupyの日記
嫌煙派のタバコ表現規制は筋が通っている。だって表現規制で人は死なないから。 - blupyの日記
科学
科学とその適用、経済学と政策担当者,教科書と中間小説 - blupyの日記
基礎科学の「良い応用」と「悪い応用」とは? - blupyの日記
こころ・脳
そもそも茂木のクオリア論は - blupyの日記
「こころ」の本質を語ることの無益さ - blupyの日記
ニセ脳科学者はキャプテン翼になるか - blupyの日記
その他(学歴、経済学、…)
生涯収入で、本当に東大生は聖心に負けるのか - blupyの日記
経済成長で国民の豊かさはかれるか - blupyの日記
アフガニスタン復興支援の不可能性 - blupyの日記

疑似科学ニセ科学
 以下の順番で読むことを強く勧める。
ニセ科学の定義 - blupyの日記
ニセ科学は間違わない - blupyの日記
科学的・合理的精神をより普及せしめることによって社会を是正しなけりゃならん - blupyの日記
権威の個人化 - blupyの日記

マニア向け↓
水伝は「言語の恣意性」の観点から検証不可能とはいえない(3/01追加) - blupyの日記

選挙の投票は宝くじのようなもの

 世の中には宝くじをばからしい、といって買わない人もけっこういる。払う金が期待値を余裕で越えていることを知っているからだ。私もその一人で、宝くじで当たると思うのは気休めか、一種の宗教くらいに思っている。ところが政治の投票となると、そうでもない。

ゲルマン:カプラン「選挙の経済学」の書評 - P.E.S.
一般的にいって、大規模な選挙においては一票が選挙を決める確率はゼロに近い。たとえばGelman, Silver and Edlin (09)によると、アメリカ人の一有権者が大統領を決定する確率は、州ごとにことなるものの、平均して6000万分の一、ニューヨーク、カリフォルニア、テキサスなどの人口の多い州だと、10億分の1になるという。こういう低い確率では、たとえ選挙結果からの利得がどれだけ大きくても、投票の期待利得、利得×確率、もほぼゼロになる。投票に行くコストは低くともゼロではないから、シンプルな合理的選択のモデルだとみんなが投票にいくなら投票に行かないのがお得ということになる。ところがもしだれも選挙に行かないなら、投票によって自分が結果を決める確率は1だから、投票にいくべき、となる。でも、みんなが行くなんら...というパラドックスが政治経済学にはある。

 これをパラドックスというのはいかにも経済学らしい、荒い議論だなぁと感じる。個人レベルでみれば、投票に誰も行かないという状況はまずないというのを知っている。投票に多くの人が行くのは、そのパラドックスを意識してというより、むしろ単にコストが期待値を越えているということを意識してないがためだと思う。つまり、宝くじや投資のようなシビアな観点では見てないのだ。いや、宝くじでさえ、あれだけ売れるのだからシビアには見てるとは言えない。宝くじは「コスト」と「期待値」がともに数量であらわせるが、選挙では、「コスト」の種類が、お金ではなく習慣的な行動で、「期待値」が自分の押す候補者の当選×確率で、比較の基準が判然としない。いわんや投票において、コストと期待利得なんて観点をもって投票なんてしてないのはかなり自然じゃないか。
 むしろ投票に行く積極的な場合がある。「選挙日に投票所に行って投票する」ことに対し完全に習慣化している。あるいは投票行動そのものに何らかの意義を見出しており、報酬化している。後者は、毎回投票に行く、受かる可能性の低い少数政党の支持者の行動を説明する。前者は、より多くの人の投票行動を説明する。
 1年に1つでも宝くじを買う人の割合とは全体のいかほどか。それなりに多いとすれば、どんな選挙でも30%くらいの投票率があることは不思議ではない。