人文科学をなめとる

一種の知的活動ではあるのだが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしい: あんどコンサ

三者として今から振り返れば、たしかに当時の地質学会の科学者らしからぬ態度は、非合理きわまりなく感じる。しかし、著者はそれを一方的に批判するわけではない。当人達にとっては極めて合理的な理由があったことを明らかにすることで、サイエンスといえども人間の営みの一部であると結論づけているわけだ。

PT(プレートテクトニクス)をいち早く取り入れた地球物理学者が、人文学的な理由からPTを徹底的に拒絶している地質学会(地団硏)との間の、科学者としての「通訳不可能性」を実感している箇所。

PTを日本にいち早く紹介し、反対派との討論会にもしばしば参加した地球物理学者の上田誠也は「正直のところ、〔地団研の先端的研究者の諸説は〕大抵はなにをいっているのかわからなかった。そういうときは謙虚にどうも私にその『哲学』がわからないのだろうとおもったこともある。(しかし、後年になると、地団硏のかたがたのやっていることは一種の知的活動ではあるらしいが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしいと思うようになった)」と回願している。
(186ページ)

そうそう。

(中略)
僕が、池田清彦の本(構造主義と進化論)を読んだとき、強烈に感じたアレと、たぶん同じだろう。

もう少し弱いけど、福岡伸一のベストセラー(生物と無生物のあいだ)を読んで少しだけ感じた、アレだ。

茂木健一郎にも感じるけど、彼はわざとやってるのかもしれないなぁ。

ともかく、トンデモやニセ科学とは違う、でも現場の多くの科学者とは決定的な通訳不可能性のある、自然科学のようで自然科学でないような曖昧な分野、しかしなぜか人文科学者や文化人からは人気がある分野って、実際あるんだよね。

で、人文分野としてそんな思想があっても全然よいのだけど、なぜかこーゆーのに限って、世間では自然科学(理科)として扱われがちなのは、理科教育の面から見て困ったもんだと思う。

  それは人文科学をばかにしすぎだろうよ。「当人達にとっては極めて合理的」があるだけのものを学問とみなしてよいのか?「自然科学のようで自然科学でないような曖昧な分野」だったりすると、人文分野なのか?当たり前だが人文科学にも分野ごとに方法とんがあり、なんでもいいわけではない。たとえばデリダの哲学とかも、フランスでは学問とはみなされない、ときいたことがある。人文科学の研究者が書いたもの=学術的な水準のもの、というわけでもないだろうし。

 茂木健一郎以外読んだことないが、彼についていえば明らかにおかしい個所が散見される。自然科学の方法論で検証できるのに、間違ったことを言ったり、定説のないことをいったりするのは自然科学的に間違い、で十分ではないか。なんで人文の分野の話になるのかな。自然科学系の人でトンデモなことを言ってる人がのさばるのは、ほかの自然科学者が注意しない面も影響しているはずだ。
 歩くか、泳ぐか、グライダーに乗るか。:Chromeplated Ratのコメント欄で、思想が現実に影響する、といってる方がいた。
最初にいっとくが思想イコール、人文科学や社会科学ではない。もちろん一部の学説が人間に影響することは誰でも想像できよう。預言の事故成就(もしくは反対現象)というやつだ。おそらく社会学では常識なのだと思う。でもそうした現象が生じるのは、人文科学や社会科学の一部の分野にすぎない。
 よくいわれるのが昔のアメリカの大統領選挙の世論調査とか。調査の影響を受け、実際の予測をはずしてしまう。ここでのポイントは何についての説明、調査なのかという点だろう。はじめから普遍的なアメリカ人の候補者支持、というのであればその調査はやっぱおかしい、ということになる。でもその時点での支持、というのであれば十分妥当性のある調査だろう。つまり、結局「思想が現実に影響する」人文や社会科科学の一部は、対象が普遍的なものではない、ということにすぎない。しかし、対象が普遍的でない自然科学だってある。生物は進化するし、生態系も変わる。
 もっとも認知神経学者なんかの話をきくと、みな一様に「理系も文系も関係ない」という。海外だと、実験心理学自体がニューロサイエンスの分野の一部として組み込まれている大学も珍しくない。自然科学と人文科学を厳密に分ける必要があるのだろうか。

 ちなみに疑似科学とかの話をすることは、「自然科学のようで自然科学でないような曖昧な分野」に入るだろうが、自然科学者にも人気があるなあ。

追記
一部、勘違いがありましたので引用を増やしておきました。