精神分析学と疑似科学

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まずいっておきたいのは、精神分析と精神医学は違うということ。精神分析は精神医学の一サブジャンルにすぎない。日本では分析を専門にしている医者はあまりいないし、本格的に分析の技法で治療を行っている医者となると、本当に数えるほどしかいない。名前が有名なわりには、精神分析というのは、精神医学の中でも、かなりマイナーなジャンルなのである。

もとより精神分析に客観的根拠なんてものはない。フロイトは「科学的心理学」だと思っていたらしいが、どう考えてもこれは科学的ではない。フロイトは肛門期だとか男根期だとかいった発達段階を考え出したくせに、ろくに幼児の発達なんて観察したことがなかったらしい。それに、無意識だ超自我などという概念は、確かに人の心を理解する助けになるが、検証不可能なのが痛い。科学者の中には、精神分析を、トンデモと同列に並べる人もいるくらいだ(ハインズ博士とか)。

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しかし、気になるのは精神分析の危うさである。例えば事件を精神分析用語で解釈したとして、それで何かを理解したことになるだろうか? それは単に言い換えにすぎないのではないか。そもそも精神分析理論なんてのは単なる仮説であり、しかも根拠の怪しいあやふやなものが多いのだ。そんな怪しい言葉を使って仮に社会現象をあざやかに読み解けたからって、そこにいったいどんな意味があるんだろうか。

 H.J.アイゼンクに『精神分析に別れを告げよう』(批評社)という本がある。…ただし、アイゼンクの『精神分析に別れを告げよう』はフロイト批判としては確かに有効だけど、それが今も有効な精神分析批判になっているかどうかは別問題。実は精神分析界内部でも、フロイト理論の多くはすでに否定されており、今さらわざわざそんなものを否定されても(一部のフロイト派以外は)別に痛くも痒くもないのである。…
それがよくわかるのが岡野憲一郎『新しい精神分析理論』岩崎学術出版社)という本。地味なタイトルだがこれは、精神分析内部にとどまりながらも旧来の精神分析を批判する、という実にスリリングで刺激的な本である…
この本を読んで私は、かつて書いた「精神分析ってのは、別に心の奥底にある真実を探り出すことなんかじゃない」という立場にちゃんと「解釈学」的立場という名前が与えられていることや、「モデルがあるってことは(そのモデルが正しいかどうかには関係なく)治療者の精神の安定上非常に有用」という私の意見にしても、「あるコフート派の治療者が言ったことだが、『理論とは、自分の治療が間違っていないのだと正当化し、安心をするためのもの』かもしれないのだ」と同じようなことを言っている人がちゃんといることを知った。…
この本の第一部は、アイゼンクなどから痛烈な批判を浴びたあとのアメリ精神分析事情の、非常にわかりやすい概説になっている。簡単に言えば、フロイトの頃の精神分析は「患者の深層心理(無意識)を探る」ものだったのに対し、現代の精神分析は「患者と治療者の間に今何が起きているのかを知る」ための学問になっているのである。…
 ただし、アイゼンクの批判のすべてが時代遅れだというわけではなく、科学的な立場からの研究の結果の中には、精神分析に致命的なダメージを与えるものもある(分析家はあまり気にしていないようだけど)。
 例えば、カルロ・ストレンガーという研究者は1991年に次のようにまとめている(これも前に述べた岡野憲一郎の本に載っている)。
(1)精神療法一般についていえば、精神分析、行動療法、認知的療法のどれも、他に比べて特に優れてはいない。
 アイゼンクは、精神分析を受けるのは何もしないのと一緒、むしろ何もしないより悪くなることもあるかも、と言ったんだけど、それはちょっと言いすぎで、どれもある程度は効果があるらしい。『不思議の国のアリス』からとって、この結果を「ドードー鳥の裁定」と呼んだりする。分析家は、精神療法の中で精神分析こそが本質的な治療法であると信じている(傲慢の罪で地獄に落ちるぞ!)ので、この結果はけっこう衝撃的だったらしい。
(2)恐怖症や強迫神経症や性的障害などについては、行動療法が明らかに優れている。
 これもアイゼンクの主張通り。
(3)治療者が個人的な治療を受けることが患者に与える治療効果はまだ実証されていない。
 きのう書いたとおり、「教育分析」というやつを受けなければ精神分析家にはなれないことになっているのである。というわけで、この項目は精神分析家のアイデンティティをゆるがすものなのだ。
(4)治療者の経験の長さが治療に好結果を与えるという証拠は非常に弱い。
 これもアイゼンクの本にもありました。岡野憲一郎は(3)と(4)について、「もうコメントのしようもありません。これが本当だとすると、精神分析のトレーニングシステムをも含めて非常に大きな問題が起きてしまう可能性もあります」となんだか動揺した口ぶりのコメントを書いている。
(5)治療者の真摯な態度や患者への共感、押しつけがましくない温かさが好結果をもたらしているらしい。
 …
 でも、共感とか温かさってのはすべての精神療法の、いやすべての人間関係の基本なのではなかろうか。…

 藤山直樹という精神分析家はこんなことを書いている。「精神分析はあくまでもひとつの営み」であって、学問ではない、と。しかも、その上で彼はこういうのだ。「精神分析を営もうと志すことはひとつの生きかたの選択」である、と。…
生き方、ねえ。SF者がコミュニティを作り、SFはジャンルではなくて生き方だと主張するようなものですかね。人の生き方に文句をつける気はないが、厳しいイニシエーション、外部には理解しがたい言葉の使い方といったあたりに、なんとなくカルトに似た気味の悪さを感じてしまうのも確かだ(SFコミュニティも外部から見ればそうかも。でもSFにはイニシエーションの儀式はないぞ)。