水伝は「言語の恣意性」の観点から検証不可能とはいえない(3/01追加)

ことの発端はこのエントリにTAKESANさんが補足してつけたこのコメントでした。

言葉を理解する: Interdisciplinary

水伝の検証不能性には、おおまかに2つの観点があると思います。

一つは、言語の恣意性の問題。語形と語義に必然的な結びつきが無い、という論理で、言語は本質的に無契的に構成し得る、という所から、水伝の主張する、ある言語体系で、良い・好ましい とされる「機能を担わされている」語に選択的に反応して結晶を構成する、というのが原理的に成り立たない、というのが導けます。

なぜならば、言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い故に、あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから。

そして、この論理を無視すれば、観測不能な概念を持ち出して理路を短絡して説明するしか無い訳で、そうすると今度は、検証不能であるのを自ら示している、という風にみる事が出来ます。

これに対して最初につけた私のコメントがこれです(誤字訂正版)

TAKESANさんが最初にあげた検証不可能性の根拠ですが、こういう主張をするなら認知心理学の一部や社会心理学の大半の命題が検証不能ということになりませんか?
 「蜜の味」のエントリの不幸とか、妬みという言葉も、物理的なものと必然的な繋がりがありませんよね。いくら学者が客観的な尺度を作ったところであらゆる言語体系に共通な「妬み」や「不幸」や定義不能ですよね。その尺度は便宜的に決めたものであって、実際にわれわれが使う「妬み」や「不幸」とはずれてるかもしれない。
 社会心理学では、刺激を統制するために全く同じスクリプトを使ったりします。しかし、そのスクリプトと意味は必然的な結びつきはないのだからそもそも検証できないことになりますね。せいぜいスクリプト*に対して○○な行動がとられたと言えても、「権威」「喜び」「不幸」「良い関係」「愛情」だとかとの関連は何も言えなくなってしまいます。
 TAKESANの議論だと、実験者が特定の意味を持たせた言語刺激に選択的な反応を調べる実験はすべて検証不能ということになってしまいます。だってその言語刺激とその意味とに必然的な関係はないのだから。

 これに対しての彼からの返答は結局ほとんどなかった*1のでギャラリーになげたのですが、ギャラリーの方々も私の主張が理解できなかったらしく、えんえんと彼らとの議論が続きました*2
現在ではおもにこちら@niftyホームページサービス - ホームページ作成なら@niftyホームページサービスで!で続いております。
あとみつどんさんのところでも有意義な議論が重ねられました。ことほど左様に言葉は難しい - みつどん曇天日記言葉を理解することは、斯様に難しい。 - みつどん曇天日記
議論の背景はこちら本当に、言葉を理解するのは難しい。 - みつどん曇天日記でしりされています、
 上の説明で不十分と感じられる方のためにいままでの私がした議論を整理したいと思います。めんどうなのでわかりやすさを考慮し、QA方式にしました。

Q0 blupyって議論できないヤツだなぁ→こんなこと書きたくはないのだが - blupyの日記

Q1 いやでも水は、人と異なって単純な構造しかないからやっぱ間違いなんじゃないの?

 はい、そのとおりです。しかし、それは理論的に間違っているかどうかの話であり、検証する方法がないかの話とは異なります。
確かに理論的に、水が感覚器や学習する中枢系をもっていなければならず、これはありえないのは明白です。しかし、ここでは「言語の恣意性」の観点から<検証不能か>どうかを論じているので、論点が違います。

Q2 TAKESANさんは、水伝だけの話に対して「言語の恣意性」の話をしてるのだから、社会心理とかに拡張するのはナンセンスでは?

 そこをもっとも批判しています。私は、様々な立場を許容するものですが、立場の一貫性なく何かを批判するなら、それは批判する対象によって立場をころころ変えていることになり、まして「水伝をアドホックな主張を繰り返す」と批判している者がやることではありません。「言語の恣意性」の観点から何かを検証不能というのであれば、当然同じ理由が当てはまるものに対しても「検証不能」と言わなければなりません。
 また、水にだけ限定すべき理由(例:水は言語を理解する中枢がない)があるのだとすれば、それはもはや「言語の恣意性」の観点のみから水伝に言及しているとはいえません。ちなみに、この上のコメントでは私は「言語の恣意性」の説明からだけから水伝を批判するのは、批判として成立してない、と指摘しています。

Q3 価値観の話と言語の恣意性をごっちゃにしているのでは?

 そのとおりです。言語の恣意性とは、語形と語義に必然的関係がない、ということですから適用するのであれば「良い言葉」とか「美しい結晶」に限らず、すべての言語に対してになります。つまり、そういう意味では「水」もあらゆる文化で定義定量化できないし、そもそも言語でできた命題自体、ナンセンスになってしまいます。そういう厳密な意味で「言語が恣意的だから検証不能」だなんて人は見たことがありません。私は当初そこまで言語恣意性を捉えていませんでしたが、私の話はたとえTAKESANさんの話が価値観を問題にしていたとしても成立する主張です。

Q4 日本では検証可能でも、やっぱ「あらゆる文化に通じる」「良い言葉」はないので検証できないのでは?

そりゃそうですが、まず、見落とすべきででないのはあらゆる文化に通じる、いかなる言語もない、という点です。「良い言葉」や「美しい結晶」だけではありません。第二に、そういった普遍言語はなくとも、「良い言葉」の働きや機能から、ある言語体系の言葉を別の言語体系に言い換えることはできます。
そのようにして様々な言語文化で試して行けばいいだけの話であって、あらゆる文化に通じる法則が導けないことを意味しません。

Q4.1 じゃあSHINEは「良い言葉」なの「悪い言葉」なの?

Q4.2 両義性を持つ言葉はどうすればいいの?

日本語言語文化圏の水では、悪い言葉でもよい言葉でもなく、英語文文化圏の水ではよい言葉、として扱う、でいいんじゃないでしょうか。だから日本語文化圏では中くらいの結晶になればよいことになります。
 両義性を持つ言葉であれば文脈を規定する状況設定をしてあげればすむことでです。
 この点ですが、これは「良い言葉」を刺激に使うときの実験デザインの問題で、私の論点とは関係ない、といっておきます。なぜならこの問題は「良い言葉でヒトの免疫機能が上がる」といった命題でも同様に生じるからです。

Q5 自然科学では、「良い言葉」とか命題にいれちゃいけないのは当たり前だろ?

 そのとおりです。私の水には適用し、ヒトには適用しないという一貫性のなさを批判しているのですから、水もヒトも「言語の恣意性」からは一貫して検証不能だとするならそれでよいのです。しかし、このような厳密な立場をとるなら、人間の価値観を含む刺激を扱う心理学も検証不能、ということになってしまいます。自分の立場を試す質問として私以下の二つをいろいろな人にしました。
「不幸」「妬み」の脳中枢を求める実験は可能か?
  ある文化で「妬み」「不幸」という言葉が感情のあり方を指示する記号になる
  が、言語の機能が物理的実態と必然的な結びつきがない故に、あらゆる言語に通底する「妬み」「不幸」は定義、定量化が不能じゃないのか?
  もし可能だというなら、「良い言葉」の場合とどう異って可能なのか?
 
ヒトに「良い言葉」をかけると免疫機能が上昇する、という命題は検証可能か?
  免疫機能は白血球の量で測るとします。


両方とも検証不能というのであれば、どうぞ水伝も「良い言葉」「美しい結晶」という価値観を表す語が命題に入っているので検証不能といってくだい。
そうでないなら、あなたは厳密な自然科学の立場をとってはいないのでだめです。またやっぱ人と水は違う、というのであれば言語以外の要素(それを調べる手がかりがあるか、水の構造は単純すぎるなど)というのを持ち出しています。

Q6 でもやはり水は検証不能なのでは?

 それは私のここでの論点ではないです。「波動」とかいう概念を出すならそういうこともありましょう。しかし、私は「言語の恣意性」の観点のみから、水伝を検証不能かとといえるかどうかについて述べています。
 また、検証不能というのはそう簡単に言えるものではない、と付言しておきます。なぜならメインの命題を直接検証する方法がなくても、その前提や条件となる命題が検証可能なら、結果としてメインの命題が否定される道が開かれるので、検証不能にはならないのです。たとえば「波動」というわけわからん概念そのものは、検証不能かもしれませんが、それが「良い言葉」をきくと水を美しく結晶させる、というのであれば、結晶を観察すればよいのですから、検証可能です。検証不能という概念は、その命題が肯定される道がなくとも、何らかの形でその命題が否定される道が開かれればよいのです。検証不能とは、より一般的には反証不能ということを思い出してください。 

Q7 じゃあTAKESANさんがいってるような説明はありえないのか?

 とりあええず「検証不能」や一貫性の話は置いておいて、「ある言語体系で、良い・好ましい とされる「機能を担わされている」語に選択的に反応して結晶を構成する、というのが原理的に成り立たない、というのが導けます。なぜならば、言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い故に、あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから。」という説明が成り立つ場合があるのか、という点ですね。
 まず、Q4に書いたように、あらゆる言語に通底するいかなる言葉も定義、定量化できないでしょう。そういう意味で「良い言葉」も当然、定義、定量化できない。説明としては十分ありえますし、「言語の恣意性」の説明にはなっている、と思います。でも、それと実際の実験とどんな関係があるのでしょうか。あらゆる言語に通底する言葉が定義、定量化不可能だから、その実験は証明する方法がない(≠検証不能)とは言えないと思います。実験者は、言語のそうした性質を踏まえた上で、実験をQ4.1のようにデザインすることができるし、実際多くの心理学系の実験者はそうした問題と戦いながら、再現性や妥当性のある実験を行おうと努力しています。
 したがって彼の(色つきの)説明そのものは正しいと思いますが、"So what?"という話です。

Q8 やっぱ水は人では利用できる、語彙と語形の結びきのルールを調べる方法や手がかりが利用できないので検証できないのでは?

 そうだったとしてもそれは「言語の恣意性」の観点から検証不能だ、とはいわないでしょう。だって水にそうした手がかりや方法がないのは、言語の性質によるのではなく、水とヒトで構造や性質が異なるからでしょう。たとえば、水がオペラント条件ずけができる、とわかっただけでも相当利用できる方法や手がかりは増えます。しかし、それは言語の恣意性とは独立した問題でしょう。

*1:彼の対応についての分析はこちらこんなこと書きたくはないのだが - blupyの日記

*2:しかし掲示板でのやり取りなどと通し、ギャラリーの間での理解も相当異なることがわかりました