血液型診断2

菊池氏はコメント欄で、性格が四分類できないことは血液型診断の批判になってない(必要ない)的なことをいっている。
おそらくいいたいのは、総合的なタイプ分けができなくても、A型は神経質かどうかという単一の性質についての議論に反論できてないということだと思う。確かにそのとおりだ。

また、この観点だと単一の性格の定義がはっきりしない(「神経質」っってそもそも何?)というもともさほど問題がない。なんらかのそれらしい指標、たとえば同じ刺激に対する反応の速さなどと設定すればいいわけだから。

しかしね、これはタイプ分け、つまりいくつかの性格が集まったパッケージの診断としてはやってるのだから、4分類できないとか性格が定義できないとかもそれなりにインパクトあるとおもう。
人々が「A型は神経質」「B型はわがまま」とか単一の性格いついて判断を下している根拠が「血液型で性格が決まる」という部分にあると思うから。
彼らはまず、たとえば神経質で記帳面なグループ、わがままでリーダーっぽいグループ、おおらかで浮気性なグループ、変人奇人のグループとしてとらえている。もちろん個々に成り立つかどうか議論はあるが、血液型4タイプで4分類できないとなると、なんでA型が神経質か理由がまったくわからなくなる。
素人なりに血液型で4分類されるという「理論」があって、そこから個々の性格についての説明が理解される。おおもとに4分類ってのがなっかたらここまではやらなかったろう。
○○型の説明書だって一冊分びっしり特徴がかかれてるわけだから。たとえば「耳の大きい人は金持ちになる」だって性格診断には変わりないが、今じゃ一部の老人しか信じてないだろう。4分類でみんなの性格を説明できるという部分に魅力があるのは間違いない。

ちなみに単一の性格についても、ちょうゆるーい相関心理学しかできないだろう。あるデータが得られること=科学的なのではない。理論とデータ両方必要。
また、これがやはり性格の定義の問題にも絡んでくる。「神経質」とか「わがまま」とかどう定義するかで全然変わってくる。もちろん実験者の側で定義することはできる。でもそれが一般に言われているような性格かどうかと一致するものにはならない。「わがまま」も利己的な行動の研究なら現在でもたくさんなされている。しかし、それは社会の何割かに特有な性質としてではない。そのうちの多くが人間一般を利己的な存在として想定している。
性格とは社会的に決定されるものだからだ。ある行為が「わがまま」とみなされらかどうかはその社会によって異なる。それを考慮して操作的に定義することは可能だろう。たとえば国民の5割が「わがまま」とみなす行動を指標にし、それをおこなってるかどうか答えてもらえば、その人が「わがまま」かどうか判別できる。一応。しかし、やはりこのデータが得られるだけでは単なる相関しか調べられない。