福岡伸一の何が問題なのかわからない人へ

 とくに知識のない一般の人が、彼のおかしさに気付くのって a-geminiさんが思っているよりも難しいと思いますよ*195%のまともなことに、5%の大ウソを混ぜるという巧妙さを持っている点で茂木健一郎とは大きく違うのです。東大物理の院生やまともな編集者もだまされるくらいですから。問題点があると思うならはっきり言語化しないとほとんどの人はスルーしてしまいます。と、思ったので私の小さな脳みそで指摘して見る。私よりきちんとした専門家の方がやるべきことだと思うが、まあおかしかったら指摘してもらうということで。記事のソースはすべてhttp://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-1ae2.htmlを参照してください*2
最初に5%の嘘の部分から。

しかし、このダーウィニズムにはいまだ十分に説明しされないある弱点がある。複雑で精巧な仕組みであればあるほど、それは複合的なシステムであり、多数のサブシステムから成り立つ。各サブシステムがうまく作動し、相互に連携しあってはじめて全体の複合システムが機能しうる。つまりサブシステムはそれ自体では有効に機能しえない。機能しないサブシステムは繁殖戦略にとって有効に働きようがない。それゆえサブシステムは全体が完成するまえには自然選択の対象になりえない。
なのに生命現象では、このような複合的なシステムがあらゆるところで成立している。これは一体どうしてだろうか。
その鍵が、実は、遊びやサボリの中にあるのではないだろうか。私は著書『生物と無生物のあいだ』の中で、生命現象を特徴づけるものは自己複製だけではなく、むしろ合成と分解を繰り返しつつ、 一定の恒常性を維持するあり方、つまり「動的平衡」にあるのではないかと考えた。そして近著『できそこないの男たち』では、性の由来とあり方について考察してみた。

 どいういうことか、もう少し具体的に説明した部分がある。

キリンの首は、努力の結果ではなく突然変異の積み重ねによって選択された。現代の生物学が立つダーウィン進化論はこう説明する。

 しかしここには決定的なジレンマがある。首が伸びるには、皮膚や組織が増えるだけでなく、骨の長さが伸び、高い位置の脳に血を送るため血圧の上昇も必要となる。つまり多数のサブシステムの変異が同時にいる。一方、各変異は全体が完成するまで有効に機能しえず、機能なきサブシステムは自然選択の対象になりえない。なのに複合的なシステムは生命のあらゆるところに存在する。この斉一的な進化をどう説明するのか。

しかし、ダーウィニズムには欠陥があります。例えば、眼のような非常に複合的な仕組みの進化は十分説明できないのです。眼の機能は、レンズや網膜、神経回路、脳の中に画像を処理する仕組みなど、多くのサブシステムが連携して成り立っています。ダーウィンドーキンスは、それぞれのサブシステムは、何億年もの時間があればちょっとずつ変化を繰り返しながら改良され、複雑な仕組みを完成し得ると言いました。

 なんとなく言いたいことはわかったと思う。彼の主張は現代進化論への批判+独自の説の提示で構成されている。まず、現代進化論への批判からみると、ようは生物がもつ高度な機能は、いくつかの下位システムの複合体である。現代生物学の進化論では、突然変異によって下位システムに変化が生じ、進化が生じたと説明する。しかし、下位システムが単独で変化しても機能の変化は起こらない。だから現代進化論の説明は不十分だ。ということのようだ。
 一見筋が通っているように見える批判だが重大な欠点がある。現代生物学が「下位システム」の単独の変化によって進化が起きる、と説明しているのかという点だ。当然そんなことはない。遺伝子の変化のいくつかは、機能の変化をもたらし、適応的だったものが生き残ることで進化が生じる。実際、一つの遺伝子の操作でいろんな「機能」に変化が生じることは、ノックアウトマウスの研究などを見れば一目瞭然。また、(そもそも「機能」「サブシステム」という切り分けが福岡の恣意的なものでしかなく、一体何を指しているのか釈然としないが、)「複合的システム」の斉一的な「変化」がそれほど不思議なことではないことは、生物の発生や発達のプロセスを見ればわかる。ヒトでいえば、1つの受精卵から細胞分裂によって「斉一的な変化」が起きて胎児ができ、「斉一的な変化」を通して大人へと成長する。1つの遺伝子の変化によってでさえ、個体の「斉一的な変化」が起き、適応性を変化させうることは現代生物学の常識的な知見である。ダーウィン進化論と何も矛盾してない。
 
(この点「コメント欄からの補足」も参照に)
 
 次に福岡独自の主張の部分。「複合的なシステム」の「斉一的な進化」は、現代進化論で説明できないが、「動的平衡」という概念によって説明できる。それは合成と分解を通して一定の恒常性を維持するあり方である、というものだ。しかし、すでにa-geminiさんが指摘しているように*3、すでによく知られた現象を自分で勝手にネーミングしただけで、何の説明にもなっていない。ミクロな変化をしつつもマクロでは個体内で恒常性が保たれている、のは現代進化論と矛盾するわけではないのと同様、その代わりの説明にもなるはずがない。そもそもなぜ、「動的平衡」なしくみをもった生物がいるのかという究極的な問いは、結局それが適応的だったという進化論的な説明しかできないわけでしょう。また、「動的平衡」という謎なネーミングによって、あたかもその現象を自分が初めて発見したかのように語るのはやめてもらいたい。
 以上、福岡は現代進化論を矮小化することによって、あたかも限界があるように語っているだけ。ほかにも気になるところがあるがまた次回。しかしね、このよくわかんない構成概念を導入するって、なんとなくおかしいと思うわけだが、輪郭がよくわかんないがゆえに批判するのは難しいし簡単に拡大解釈の方向に向かってしまう。とくに心理学(認知神経科学)とか構成概念ばかりだから気をつけねば。ミラーニューロンとか、心の理論とか、なんなんだろ。
 
(追記)12/29 一部、よく理解されない点があったので引用を1つ追加した。
(追記)コメント欄からの補足
 少し切り口を変えて説明すると、個体差がイメージしやすい。キリンの祖先の種で、首の長さに個体差があったことは容易に推定できます。その中で何らかの選択圧が働いて、少し長いものがより子孫を残せるようになった。それが積み重なって最終的に現在のキリンができた。たしかに1日で6mの首の斉一的な変化がおこるのは無理だが、600万年あれば話は別。1年にすれば1マイクロメートル程度。もちろん、この過程では首が伸びるだけでな縮むこともあったと考えられるが、いくつかの「サブシステム」の斉一的な変化は個人差を考えれば何の不思議もないでしょう。
 この点、私は上の記事で発生の観点で説明したつもりでした。発生の過程では、それ以前のより原始的な種の形質が見られる。その連続的な変化を区切ってみてけば、進化の過程も想像できる。発生や発達のような斉一的な変化が不思議でないように、長期的に進化の過程で斉一的な変化が起きるのも不思議ではないよね、というのが上の説明でいいたいことでした。
 また、分子レベルでの中立進化を考えれば、適応性に直接関係のない遺伝子の突然変異も受け継がれることがあるのですから、直接生存に関係のない「サブシステム」の変化がなぜ起きるんだといっても進化論の限界を指摘したことにはならないでしょう。

*1:や、私もとくに知識のない一般の人だけど

*2:ちなみに私は彼の本は何も読んだことはありません。

*3:http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-8a55.html

Behavioral Neuroscienceって/ポスドク問題/事業仕訳

Cognitive Neuroscienceとどう違うのだろう。だれか教えてくれ。
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世のブログの大半はワインだとかランチだとか、たいていの人にはどうでもいい内容なのかもしれないが、普段専門性の高いブログでたまにそういう記事があると残念に思う。RSSとかでひっかかってもあーなんだぁって。でも常には見たい記事がない方が、ブログをみるという行動は増えるのかもしれない。常に見たい記事があるブログは、一度見たい記事がなかった体験をしたら2度とみなくなる可能性が高い気がする。常にメールを返してくれる子よりたまにメールを返してくれる子の方にひかれるように。
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やってみたい専門がないのに、ほかにやりたいことがあるから大学院に行くのはありか。つまり、悪く言えばモラトリアムの延長だが、大学時代に授業そっちのけで別の活動に打ち込む人がいるように、大学院時代を楽しむのはありか。
 そうする環境があるのならよいのだろうな。所詮、社会的には大学院の専門なども一部を除いて「趣味」でしかないのだから。
 結論からいえば、ポスドクとか博士問題は、修士から絞らなければダメな気がするということ。そして原則後期博士までいかせ、ドロップアウトしたものに修士。金はないが優秀な学生からみれば修士さえキャリアの役には立たないかもしれない。優秀な学生がほしければ金をやる。そのために人数を絞る。
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事業仕訳について、グランドデザインが描けてないとはいうが、注意したいのは常に高次のデザインが優先されるということ。財政再建が至上というグランドデザインなら、科学関連予算だろうが、無駄なダムだろうが削減すべきで、それに抗うのは自分の所属の利益を主張するエゴイスト、分からず屋。一般の人からはノーベル賞受賞者とや八ツ場ダム推進派は同じ穴のむじなに見える。
 だから、自分の分野が削られたくなくば、財政再建至上主義にあらがうことから始めねばならない。自分の分野でいくら最善の案を出したとしても、全体のデザインを変えられないならばそれは局所最適解としか見なされない。
 

大阪府立大のブランディング

http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20091211/1260489823経由。大阪府立大
 
 そういえば1回だけこの大学に行ったことがある。休日だったこともあって人もまばらだったが、敷地だけが広い典型的なぱっとしない公立大学だなぁという印象だった。それはともかくちょっと考えるだけでもこの改革には課題が山積みだとわかる。と思ったが詳細な改革案 
http://www.osakafu-u.ac.jp/news/news001609/091203.pdf見たら、なんかまともな改革に見えてきた。都立大⇒首都大の改革と一緒にすべきではないかもしれない。
 「選択と集中」によって文系学部を削減し、よくわかんない学際系の学部をつくる、というのはこれまでもよくあった大学改革だ。この大学が新しいのは「理系の高度研究型大学」を目指すという点で、弱小私大では言いたくても言えなかったことだろう。確かに学生からの人気を上げて経営基盤を立て直すだけなら、マンガ学部みたいな文系のとっつきやすい学部で勝負に出るのもありだろうが、公立大学には地域への貢献がある。だから「高レベルの教育、研究を通して地域に貢献する」というのは筋がいい(この点、メーカーが多い大阪ならでは部分があり、ほかの公立大学の地域貢献が「研究型大学」になることかは大いに疑問だ。)。その点、いまいち向性の見えない改変や改名を行った都立大の改革とは異なると思う。
 
 しかし、大学のブランド戦略としては微妙だ。

地味な宇都宮大をブランド化 について考える | 大学を考える
まず、大学に限らず、ブランドとは何かについて考えてみると、元の意味は、家畜に自分の所有物であることを示す焼印を押すことだと言われています。プロレスの技にもあるcalf brandingの「ブランド」ですね。「他の誰のものでもなく、私のものである」という印です。何も高級なものだけがブランドなのではなく、「大衆品」というもの1つのブランドだと言ってもよいということになります。汎用的に定義すると、ブランドとはつまり「そのものが他とどう区別されるか」ということです。

 この差別化という点でネックなのは阪大の存在だ。理系に限定しるわけではないが、伝統的に理系に強く「理系の高度研究型大学」と言えなくもない。阪大に行けない人をターゲットにしているといっても、それじゃ「手ごろな偏差値で行ける理系大学」であって、「高度研究型理系大学」とは違う。
 またそもそもそんなブランド戦略は可能なのだろうか。府立大の研究予算や学生のレベルは、阪大はおろか大阪市立大にも負けぎみ。本気で「高度な研究」を目指すなら、学生と教員のレベルの大幅な向上が必要だろう。良い研究者を呼び寄せるどころか、逆に流出させた都立大の改革は、反面教師になる。理系に絞る、ということで入学する学生の層も絞られる。女子の数は間違いなく減るだろう。もっとも私立の理系の学費は高いので、一定のニーズはあるだろうが、現在の偏差値で果たして入学志望者が増えるかどうかは謎だ。この点でAO入試なんかに舵を切ろうものなら、理系のすぐれた学生を集めるという点で疑問符がつく。
 今回の改革案では、大枠は示したが、4領域に集中した後具体的にどういう教育を行っていくか明記されてない。「専門性+実践力」という言うが、その実践力をどうもたせるのかも謎。学部の統廃合だけでは、一瞬話題を呼ぶだけで、長期的には現状のままか下降だろう。
 これについてはいろいろはてぶで意見がるようだが、今回の改革のベースは「選択と集中」であって、単なる予算削減ではないので、事業仕分けを例に出すのは間違っている。また、財政赤字だから、少子化からしょうがないだとか、そういういうのは腹が減っているのだから無銭飲食してもしょうがない、というくらい愚か。問題が存在するからといって、それに対するいかなる処置も無条件に肯定されることはない。どんな改革案も、現状維持で得られる以上のメリットを産むかどうか厳密に判断された上で実行されなければならない。今回はあえて触れなかったが、文系をつぶすことの害、とういうのも当然総合して考慮されなければならない。
 (追記)このとりあえず「高度研究型大学」を目指す流れは、私立高校が中高一貫進学校化を目指したようにはやるのだろうか。重視注でも述べたように、大阪という土地柄だからこそ、理系の研究に絞るのはそれなりに意味があると思っているがその他の地域ではどうだろうか。

カラスの社会

http://shinka3.exblog.jp/13136745/

 最近、カラスの害に業を煮やした理学部当局(?)がカラスの狙う可能性のあるゴミの収集場所を、オープンスペースから完全にクローズドな屋内型へと変更しました。

 しかしたとえそうでも、カラスにとってどこに食べ物の廃棄物があるかはとっくにお見通しで、たまたま今朝はドアが開いていたので、必死でのぞき込んでいました。
(中略)

前のカラスはドアの前にブロックで作られたステップにまで上がっており、すきあらば突入の体制をとっていますが、おかしいのはそのちょっと後ろにいるカラスです。前にいる勇敢なカラスと同じく、餌の在処は認識しているものの、大きく腰が引けており、可動部分であるドアの近くに寄れません。

 こいつらはハシボソガラスじゃなくてハシブトガラスかな。よくはわからないが、ハシブトならたいてい、餌を最初に直接とるのは下っ端のカラスであることが多い。優位な個体やメス(メスに序列関係はないが基本的にどのオスよりもえらい)は、身づからは手を汚さずに下位のものを横取りする。カラスの社会は基本的に他人の獲物を横取りしながら生きていく超弱肉強食社会らしい。
 だから奥の個体の方が優位な個体かもしれない。少なくとも手前のやつは、閉じ込められるリスクと後ろの個体に獲物をとられるリスクを背負っていることになる。実はどこかにもっと強いボスが隠れているかもだけど。

ディベートカフェにはジャッジが必要

政治的行動を下支えするための「床屋談義喫茶」 - 発声練習

何かの問題を解決しようとするとき次のステップを踏むとする。

問題の把握
問題の原因分析
原因の解消あるいは緩和方法の調査および提案
実施する解消方法あるいは緩和方法の選択
選択した方法の実行
(中略)
単なる場を設けただけだと、議論好き(得てして議論がうまいわけでなく、自説を述べるのが好き)な人だけが集まり、「時事問題に興味を持った人の多くをステップ2の状態に持っていく」という目的が達成できないので、仕組みが必要。ディベート・カフェなんかは私のイメージに近そう。一定のルールを用意して、能弁な人もそうでない人も、専門知識がある人もそうでない人も、取りこめるようにした方が良さそう。何かの時事問題を煽りたいときには、専門家がその場に参加して、議論の相手になったら良い。

たとえば、以下のようなものはどうだろうか(ブレインライティングの応用)。

議論の目的:**という事柄について、現状の問題は何か、その問題の発生原因は何かを明らかにする
議論のゴール:二人の意見がまったく違うということが分かる or 現状の問題とその原因について同意を得る or 1時間経つ
議論の人数:高々5人
役割:司会進行&タイムキーパー1名(2人の場合は不要)
必要なもの:スケッチブックとマジックペン(2色以上)を人数分
進め方:ターン制

 なるほど。でも泥仕合を避け、ディベート風にやるなら、司会進行ではなくてジャッジが必要だろう(http://d.hatena.ne.jp/blupy/20090207/p1)。説得対象が第三者であるなら相手の人格を攻撃することは無意味になるし、公平が保たれる。もっともこの議論の目的は勝ち負けを決めるものではないのかもしれないが。勝負の要素を入れたら、「つまらなさ」は一気に吹き飛ぶことは間違いない。

ただゲームとして確立したディベートって、第一の目的は政策課題の理解を深めることではなく、頭を鍛えること*1。とくに即興ディベートの場合は、非常に限られた時間でいかに効果的な議論ができるか競うので、論点が狭いエリアに絞られてしまう。もちろん、副次的に政策を理解することはあるあろうが、それを目的にやるにはコストが大きいのではないか。というのもディベートは議論するための縛りが多いし、エネルギーを浪費するので。
 
 たしかに議論が狭まるという難点はあるが、勝ち負け制にし、ジャッジを取り入れれば、論理的に政治的意見を言う訓練になり、「民度」の上昇に貢献するだろう。

*1:正確には論理的思考や表現力

ほんとかよ

http://sankei.jp.msn.com/science/science/091113/scn0911130330000-n1.html

 ≪チンパンジーとの差極少≫
 2003年、ヒトの全遺伝情報(ゲノム)の完全解読が、10年以上の年月と世界各国の研究者の協力を得て完了した。生物学のアポロ計画と呼ばれるほどの大プロジェクトであった。
 それから2年後の2005年、ヒトに最も近い現存動物種であるチンパンジーのゲノムが解読され、ヒトゲノムの設計図との全体的な比較が行われた。
 地球上におけるどんな生物にも設計図があり、私たちをヒトたらしめた謎もまた、DNAに記録されていると考えられた。
 他の生物とのDNAの違いこそが人間らしさを示すものと誰もが期待していた。だが、チンパンジーのゲノム解読後、ヒトのゲノムと比較してわかったことは、意外にも、その差はわずか3・9%だった。ヒトゲノムの全長32億塩基対から考えれば、本当にわずかな違いである。
 もっと興味深い事実が判明した。それは、ヒトにあるが、チンパンジーには無いという遺伝子は、一つも発見されていない。このことは、ヒトという種を決める特別の遺伝子は無いことを意味している。
 それでは、ヒトとチンパンジーのゲノムの3・9%の差とは一体何かとの探索が行われた。
 これが分かれば、ヒトをヒトたらしめるDNA配列を探り当てることができる。
 ≪「遺伝子スイッチ」が重要≫
 探索した結果、その一つに、大脳皮質のしわの形成に関与する配列が発見された。興味深いことに、その配列はタンパク質をつくるためのDNAではなかった。
 以前は「がらくたDNA」と呼ばれていた部位にあり、現在では遺伝子スイッチのオンとオフの、タイミングや場所の決定にかかわるものと考えられている。
 全く「がらくた」だと思われていたDNAが、実は大変重要な働きをしていたのだ。
 このようなDNAは、脳以外でも見つかっており、ヒトの器用な手の動きにかかわる配列が報告されている。
 他にも、発話と強く関連する遺伝子において、ヒトとチンパンジーの間で、スイッチのオンとオフのタイミングや場所の違いを生み出す可能性のある変異が見つかっている。
 こうしたゲノム解読によって見えてきたのは、遺伝子スイッチの重要性だ。形態の進化を引き起こす最大の推進力は、遺伝子の基本的設計図の変異ではなく、オンとオフをつかさどる遺伝子スイッチの変化である可能性が高い。
 進化以外でも、生物の発生過程や、がんなどのさまざまな疾患において、遺伝子スイッチの重要性が指摘されている。
 そしてこの10年の間に、環境による影響、たとえば栄養分やストレスなどの感情が、DNAの基本設計図に変異を加えることなく、DNAの働きを変えることが明らかになった。
 遺伝子がオン・オフの機能をもつことは、もはや明白な事実であり、それは一生固定されたものではなく、与える環境によって変化する。
 その環境には、次の3つが考えられる。1つは気候変動などの物理的要因、2つ目は食物と環境ホルモンなどの化学的要因、そして3つ目は精神的要因である。
 私は精神的要因に注目し、「心と遺伝子は相互作用する」という仮説を2002年に打ち出した。
 ごく最近、笑いという陽性刺激が、糖尿病患者の食後の血糖値の上昇を抑え、その際、オンまたはオフになる遺伝子を発見した。この業績をもとに、世界で初めて博士が誕生した。
 ≪良い遺伝子をオンにする≫
 心にも、ある種のエネルギーがあり、「思い」や「心の持ちかた」が遺伝子のオンとオフを変えるという事実である。
 つまり、心の働きを変えるだけで、遺伝子レベルでも高次の人間に進化できる可能性があるということが分かり始めた。
 この事実は、人の生き方や考え方に、新たな望みを与えてくれる。なぜなら、人のDNAは自分で変更できないが、心は自分で変えられるからである。
 チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発表したのは、今からちょうど150年前のことだ。
 彼は「すべての生物は共通の祖先に由来し、自然淘汰(とうた)により進化した」ことを、自らの足で探索し、観察した膨大な事実をもとに発表した。
 そして今、ダーウィンの進化論を超える新しい進化論が生まれようとしている。
 私は、笑い、感動、感謝、生き生きワクワクした気持ち、さらには、敬虔(けいけん)な祈りまでもが、良い遺伝子をオンにすると考えている。
 これからの私たちは、意識して、よい遺伝子のスイッチをオンにすることで新しい人間性を生み出すことができる可能性がある。
 この新しい進化に貢献するのが人間の使命であり、すべての生き物の「いのちの親」の望みに添うのではないかと思っている。(むらかみ かずお)


社会科学における実証性は必須か?

 いまさらながら。この点でナイーブすぎる人が意外にいる。その仮説には支持するエビデンスがない、だから正しいとも間違ってるともいえない。なのにその仮説を主張するのはおかしい。と、素朴に思っている人は、たぶん、二つの点を見逃している。社会は繰り返さないということと理論的な正しさもあるという点だ。
 前者は言うまでもないが、実験という観点でみると、社会そのものは繰り返さないので、厳密なコントロールは存在しない。もちろん、設定を小さなもので再現して実験したり、別の形の実証もあり得るだろう。しかし、自然科学的な意味での実験による実証は不可能か、可能であっても実行する規模がでかすぎる場合が多い。
 理論的な正しさ、というのは自然科学にもある。別に実証が伴わなくても論文になる分野がある。同じ「理系」でも、実験屋と理論屋はやってることが大きく異なる。後者の営みは文系に近いのでないか。いや、自然科学の理論は、数学的に照明されるから正しいのであって、社会科学ではそうはいかないという意見もあるかもしれない。しかし、数学というのはモデルを説明する手段の一つにすぎない。モデルや理論は必ずしも数学を使わなくても説明し得るし存在し得る。
 (つづく)