ニセ科学の定義


http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-03-29で菊池氏が
科学は間違うがニセ科学は間違えられない、といったことをコメントしていた驚いた。

 そりゃそうだけど、菊地氏の以前のニセ科学の定義「見かけは科学だが実は科学ではない」と矛盾するのでは。
ここでのポイントは「実は科学的でない」の解釈だが、彼の以前の使用だと、この「科学ではない」というのは科学的に間違っている、という意味でしょう。この定義なら、「水伝は科学でないのにブラインドテストで実験いして証明されているといっているのでニセ科学だ」とか、「心理学の実験で反証されたのに、科学的根拠があるといっている血液型診断はニセ科学だ」という指摘は妥当である。
 一方で、「二世科学は間違えられない」というのは反証可能性を科学とニセ科学の区別に用いているということだろう。この場合、「実は科学ではない」というのが、「反証可能性がない」という意味になる。したがって、血液型診断やマイナスイオンは、ニセ科学ではない、ということになる。だって間違いだということは明らかだから。
 これが菊池氏の当初の定義と大きく異なっているののは明らかだろう。反証可能性を科学とニセ科学の基準にしている一部の科学哲学者は、おそらく菊池氏がニセ科学としている対象の多くをニセ科学とはみなさないでしょう。両者が共通してニセ科学とするのは、波動とか超能力ぐらいになってしまう。ようは、後者の定義だとにニセ科学の定義が前者よりかなり小さくなってしまう。*1
 もちろん、どう定義するかはそれぞれの勝手だが、一貫性は必要だと思う。まさか菊池氏が科学哲学者のようなことをいっていたとは。もしかしたらどこかに実は矛盾ではない説明が書いてあるのかもしれない。でも「一見」矛盾するこの説明で「共通理解」を周囲に求めるのは酷だろう。

 (追記)ここら辺、前から考えてたことに関連する。後者の定義だと、血液型診断やマイナスイオンニセ科学でなくなる、と上に書いた。じゃあ何なのだろうかと考えると、おそらく「間違った科学」ということになるのだろう。科学でないか、という点ではほかのまともな科学とはわけず、「間違い」かどうかでわけている。結局、「間違い」だという点は、菊池氏と変わらないが、科学の内側からか外側からかが異なる。つまり、一部の科学哲学者は「間違い」を科学に内在させているのだ。これが「間違いはニセ科学じゃない」ということの意味だろう。もちろん、だから科学哲学者の定義のほうが正しいというわけではないし、むしろどちらかといえば一般的な感覚にフィットするのは菊池氏の方であろう。それに単に「間違い」というより、「ニセ科学」という方がインパクトがある。
 それでも後者の定義の、あえて良い点をあげれば、詐欺犯罪などに「ニセ科学」という別のカテゴリーをつくらないことだろう。(もっともこれは悪い点でもあるかもしれないが。)私はかねてから「ニセ科学」の大きな問題点の一つは、詐欺など消費者をターゲットにした犯罪に利用されやすい点だと考えていた。この点をニセ科学の害の一つして指摘する人も多い。しかし、もし解決を考えるなら、他の消費者問題と分ける必要があるのだろうか。「騙されている」点は同じだし、ニセ科学特有の解決しずらさがあるとも思えない。人間の信じやすい心理に付け込んで、嘘をついてもうけている点で同じだ。そこからどのように詐欺から脱却させるかについて、ニセ科学を利用した詐欺とそうでない詐欺に違いはないだろう。また、新しくニセ科学の団体を結成するより、すでにある消費者団体などを利用した方がたやすい。ようは、こんな新たな消費者問題もあるよとアピールするのだ。
 血液型が雇用差別につながる、というのも同様な考え方ができる。雇用差別のひとつであることを強調して他の雇用差別と一緒に解決を図ってもらう。巨人ファンだけを優先して雇っている会社もあるかもしれない。偏見にもとずく雇用差別というのはもっとあるだろう。
 問題は多様でも害の種類は絞られる。だったら問題ではなく害の種類にフォーカスをあてて解決を図る方がもしかしたら容易かもしれない。もし害の解決を最優先にしたいのならば、必ずしもニセ科学というカテゴリーが有効とは限らない。

 結局、純粋に学問的興味のみで線をひくのもまた一つだが、何かを定義するというのは政治的な営みなわけだから、そこらへんも考慮するひつようがある、ということ。 

(追記)つづきはこちらニセ科学は間違わない - blupyの日記

一ついっておくと、もし「ニセ科学は間違わない」の私の解釈が「誤読」だとすれば(というかそうなのだが)、菊地氏のコメントが文脈に沿わなくなるはずだ。たしかに「科学にも間違いはある(間違いをニセ科学とみなすべきでない)」という指摘に反論する中で、「間違いはニセ科学ではない」「ニセ科学は間違わない」という表現が文字通りの意味なら反論になっている。しかし、それがspiklenci-slastiさんのいうように、「ニセ科学は間違いを認めようとしない(命題・仮説レベルの正しさを軽視する)」という意味なら、噛み合ってない。だって結局、現時点での科学から見て「ニセ科学は間違っている」わけだから。ですから、私の解釈がおかしい(SFオンラインの私の解釈は間違っていると思います)のなら、当然今度は彼のコメントの文脈との不適合が問題になる。一方、菊地氏は共感してない反証可能性を基準にする分け方だと確かに「科学にも間違いがある」という問題に対し、ニセ科学は定義上「間違えられない」と答えて簡単に反論することができる。だから私が「誤読」だと指摘するのは良いけど、そのかわりニセ科学と間違いについてもう少し考える必要が出てくる。

*1:どっちが「良い」定義かは議論の余地があろう