ニセ科学は間違わない

前回ニセ科学の定義 - blupyの日記
のつづき
(付記)私がここで問題にしているのはニセ科学と科学的な間違いの関係についてです。「科学も間違いをおかしながら発展してきた。なのに科学的間違いをニセ科学としてしまうのはおかしい」という指摘が出発点です。それに対してどう反論していくかについて考えています。その一つとして、反証可能性ニセ科学の基準にすれば、そもそも「ニセ科学は間違えられない」という一言で終わりです。でもそうでないのなら、ニセ科学は「間違わない」とか「科学的間違いはニセ科学ではない」といっただけでは意味がよくわかりません。ニセ科学は現時点の科学から見れば「間違っている」ということを前提にしているからです。

 最初に断っとくが、私は「見かけが科学でも、実は科学でないもの」という定義と「科学は間違うがニセ科学は間違えない」という文言が絶対的に矛盾している、といいたいわけではない。ただすぐにのみこめる説明ではないと思ったので少し立ち止まって考えてみたわけだ。だって「ニセ科学は間違わない」というのはあくまで比喩的な言い方でしょう。それだけで説明を済ますのは粗末な感じがした。ともかく、どこかに両者を整合的に説明したものがあるんじゃないかと思ったが、自分では下げせないし思いつかなかったので、誰かが指摘してくれるだろうという思いで、あくまで自分が見える範囲で感じたことを書いた。
 そんな中さっそくspiklenci-slastiさんからご指摘があった。

このような考えのもとでニセ科学というものを考えたとき、ある仮説・命題に関わる科学的正しさの度合いには二種類が存在することになります。
すなわち、その仮説・命題のその時点に於ける実際の科学的正しさと、それに対する評価として示される科学的正しさです。
通常の科学ではこのふたつを一致させる方向への運動があり、それゆえに前進が起こるわけです。
しかし、明白なニセ科学というのは、その時点に於いて科学的に正しいとは明らかにいえない仮説・命題について、それを科学的に正しいとする評価を明にせよ暗にせよ示しているものであるわけです(少なくとも、それを間違っていると”正しく”評価しようとはしない)。
つまり、自らの支持する仮説・命題について、その実際の科学的正しさとその科学的正しさについての評価のふたつを一致させる方向への運動が見られず、それゆえにそれを”間違っている”と評価することがない(もしも間違っていると”正しく”評価することができたならば、それはその時点でニセ科学ではなくなる)。
ニセ科学は間違わない」とは、ニセ科学に於ける、そのような、実際の科学的正しさとそれに対する評価とを一致させようとする運動の不全を表現したことばなのではないでしょうか(f)。

 つまり、ニセ科学はそもそも仮説・命題レベルの正しさをはじめから無視、軽視しているから「間違わない」、ということのようだ。一方、科学は仮説・命題レベルを大事にするから「間違う」ことがある。なるほど、少しづつ理解が進んできた気がする。でもそうすると「ニセ科学は間違わない」はやっぱかなり比喩的な言い方だろう。だって現時点の科学からみたら「間違っている」のだから。より直接的にいうなら「修正しない」、とか「ぶれない」とかの方が適切に思う。これは私が見た限り一番菊地氏の言いたかったことに近い気もする(もっともここでは彼の真意はどうでもよいのだが)。

http://taizo3.net/hietaro/2008/02/post_181.php
科学が提示するのは、常にその時点での暫定的な理論にすぎない。新たな実験が出れば理論は修正され、進化する。修正されうるからこそ、科学を信頼することができるのだ。科学は間違うがニセ科学は間違わない。間違わないものを信じるわけにはいかないのだ。

── 菊池誠。「SFオンライン」所収、『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(マイクル・シャーマー著)の書評より。

 という風にあり、長期的には間違いとわかりうる科学と、その時点での科学を無視するゆえ、長期的にはぶれないニセ科学とを対比させている。でもやはり、ニセ科学をその時点での科学からは間違いといえるものだと考えているのだと思う。ちょっとここだけではなんで「ニセ科学は間違わない」のか不明だけど、おそらくspiklenci-slasti さんの説明の通りなのだろう。でもやっぱかなり比喩的ないいかただと思う。
 
さらに、おおもとのpoohさんは
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2009-03-29

『間違い』が存在するから科学は進歩し続ける。
『間違い』がなくなっった時点で『科学は完成し』、科学の進歩も止まる。
そして全てのものが、そうで有る様に間違いを全て正した、『完成されたもの』に永遠の未来はなく、ゆっくりか劇的かの違いはあっても、どちらにしても唯衰退して滅び行くのみである。

最初のセンテンスには同感できなくもないのだけど、そこからあとの部分にお書きのことの意味がよくわからない。
ごくごくふつうに考えて、科学に限らず「ここまでは間違いなく完成しているけどここからはこれから(だけど間違っているわけではない)」と云う状態はいろんなことがらに存在すると思うのだけれど、どうかな。

という話でしたが、彼も「ここまでは間違いなく完成している」という状態が科学にあると述べていることから、現時点(完成している時点)でそれに反することをいってるものをニセ科学と呼ぶのでないかな。私はそれはかなり自然な態度だと思う。でも、「間違いはニセ科学ではない」という立場とは違うはずだ*1


 でいったん話を戻すと、ここでは「見かけが科学でも、実は科学でないもの」と「科学は間違うがニセ科学は間違えない」とを問題にしているのであった。ポイントは「実は科学ではないもの」が何を指しているかであると思う。

 spiklenci-slastiさんの説明だと、それが、現時点での科学(命題・仮説)から見て間違っているもの、ということになんじゃないか。
でもそうすると、結局(現時点から見て)間違いはニセ科学、になるんじゃないのかな。

 そういうと「間違った科学」と「間違いな科学」は違う、という意見もあるだろう。過去に間違ったものははニセ科学じゃないが、現時点で間違っているものはニセ科学になる。でも現時点で、間違いだと思われていたが、後に正しいことが判明することもある。たとえば、電磁気学では20世紀初頭まで、電磁波の媒体としてエーテルというものが想定されていた。これに対し反証する実験や観測が報告されたが、補助仮説を修正してなんとかエーテル仮説を保持しようとする動きも盛んにみられた。*2当時エーテル仮説を反証しようとする説は、とくに初期は、「間違った」と認定されたのではないだろうか。つまり、すでに支配的になった理論や仮説に挑むとき、1つや二つ実験しただけでは反証はできず、むしろおかしなことをしている人、間違ってる科学をがんばって証明しようとする人のようにみえるかもしれない。実証はともかく、新しい理論を立てるときなどもっと抵抗にあうだろう。それが反証がかなり出てきて「どっちつかずの状態」を経て、エーテル仮説が間違いだったという結論に至ったのだと思う。そうすると、今度はエーテル仮説にしがみついて証明しようとする人たちが「間違い」ということになる。
  このように現時点に限定しても「間違い」を基準に科学とニセ科学を区別をするのは容易ではない。このような指摘に対し「間違いはニセ科学ではない」「ニセ科学は間違わない」とかというのはちと違うのではいないだろう。だって現に「現時点では間違ってる科学」をニセ科学としているのだから。すくなくとも大分ことば足らずである。
 
 じゃあ、現時点で間違っている仮説・命題を唱えているのををニセ科学とみなすのは問題なのか?
私個人としてはそれほど問題ないと思う。定義の仕方はそれぞれだし、こういう定義のほうが一般の感覚にフィットする(とこの前も書いた)。現時点で、水伝、血液型診断、マイナスイオンなど明らかに科学とはい言い難いものがたしかに存在する。
ただ、これは「間違い」を科学の外側においている、という点は自覚すべきではないか(自覚すでもなく一般的にみて自然な考えだけど)。すくなくとも一部の科学哲学者のように科学の内側にには置いていない。そして、そうならば、「間違いはニセ科学ではない」「ニセ科学は間違わない」というのは、全く文字通りには解釈できず、解釈できてもきわめて比喩的な表現だというしかない。

 もっともそうかというと「間違いはニセ科学」というのは全く問題がないわけでもない。エーテルの例のように現時点で「間違って」いても後で「正しい」科学になりうるものがあるからだ。そうすると、相対性理論にいちゃもんつけているやつと、健全に大理論を検証している人の違いが不明確になる。後者までニセ科学者と呼んでしまうかもしれない。でも両者には大きな隔たりがあるように感じる。あ、でもそれは「間違い」を科学の内部に含んだ場合も同じか。両方間違い、として扱ってしまう点で。両者の「間違い」は、直感的にはかなりことなるので何らかの方法で区別できるはずだ。血液型性格診断やマイナスイオンの「間違い」と、初期にエーテルの反証に挑んだ「間違い」は、別物だろう、直感的に。

 
で、結論めいたものをいうと、やっぱ「ニセ科学は間違わない」とか「間違いはニセ科学ではない」というのは、よくない。文字通りに解釈できないという意味で。「ニセ科学は間違いだが、間違いがすべてニセ科学というわけではない」というのはどうだろう。

*1:もっとも「間違いはニセ科学ではない」と直接言える立場もある。なんで、最初に「間違わない」を「間違えられない」と解釈したのかというと、戸田山氏が、菊池氏とほとんど同じ文脈で「科学とニセ科学の違いは「間違い」ではない」といったことをいっていて、その別の基準として「反証可能性」をあげていたからだ。その場合だと、「科学も間違える」という問題を避けてニセ科学と科学のラインの引くことができるのはたしか。

*2:戸田山和久「科学哲学の冒険」