因果関係について(1)〜走り込みや投げ込みは「迷信」

そらまめさんのとこより。
http://soramame-shiki.seesaa.net/article/115756003.html
桑田真澄

2009/03/11 23:48 Written by Narinari.com編集部

ワールド・ベースボール・クラシックWBC)韓国戦の解説を務めた桑田氏は、同大会で投手の投球数が70球に制限されていることに注目。プロの投手に制限を与えているにもかかわらず、大学生以下の選手に100〜200球を投げさせている指導者がいることについて「とても恐ろしいこと」「勝利至上主義以外、何物でもないよね」とした。

また、選手を怒鳴り散らしたり、タバコを吸いながらミーティングをしたり、昼食にアルコールを飲んで練習をしたりする指導者も少なくないようで、こうした指導者に対して「怒鳴らないと理解してもらえないほど、私には指導力がないんですと、周りに言っているようなもんだよね」「自分に甘くそして、優しく、子供達に厳しい指導者は要らないですよ」と一刀両断している。

さらに練習方法についても、投げ込みや打ち込み、走り込みなどをすべて「迷信」と断言。疲労を蓄積するだけの練習方法をやめ、「効率的、合理的な練習メニューを考え、短時間集中型の練習をして、残りの時間を勉強や遊びに充てるべき」とした。

競技が異なるものの、スペインの少年サッカー指導者の免許を持つサッカー専門誌「フットボリスタ」編集長、木村浩嗣氏も、指導者勉強会で「技術や体力に特化した反復練習自体が不要」との結論を得たという。どの競技でも指導者がこうした勉強会に参加すること、独学でもスポーツ科学などを学ぶことが、桑田氏の言う「気付く」ことにつながるのは間違いないだろう。

桑田氏はよほど指導者への不満が募っているようで、「落ち着いたら、指導者について、本を書こうと思う」としている。勉強中の最新スポーツ科学が反映されるであろうこの書籍は指導者必携となりそうだが、果たして「気付いていない」指導者たちが桑田氏のアドバイスに耳を傾けるのだろうか。

これに対しそらパパさんは、

まず第一に、ヒトは絶えず動的に変化していきます。特に、ある種の「不均衡」が現に生じているとき、その変化は大きなものになります。
子どもは発達により新しい能力や新しい行動パターンを獲得するという「変化」をみせますし、スポーツをする環境にある「からだ」は、そのスポーツに適応するようにその身体を変えていきます。ケガなどにより一旦失われた運動能力も、「からだ」を自ら変化させて、その能力を回復していくでしょう。
もちろん「良くなる」方向だけではありませんが、ヒトが動的に常に変化しつづける存在であることは間違いありません。

そして第二に、私たちは「変化」に対して、どうしても「因果関係」を見つけようとする認知のバイアス(偏り)をもっています。
降っていた雨がやんだときに、てるてる坊主を下げたことがその「原因」であるような気がしたり、逆に出かけたときに雨が降ってきたときに、自分が「雨男」「雨女」であるような気がしたり、マージャンなどのギャンブルをしていると、「場の勢い」とか「牌の流れ」といったものを感じてしまったりするのは、どれも単なる錯覚ですが、錯覚だと分かっていてもそう感じてしまうくらい、私たちの「因果律バイアス」は強いものです。

 逆にいえば、われわれが因果関係だと思っている事柄は、実は単なる発達上の変化だったり、偶然の産物だったりするわけです。
「調子に乗るとと失敗する」だとか「家庭教師をやっとたらいい点が取れた」とか。ある操作Aの後に、Bという変化が現れると、そこにAだからBという因果関係を見出してしまいます。
 なんにでも「なんで」と問うことはいいことだ、と学校で習ってきたかもしれません。しかし、「なんで」と安易に問うことが、上の走り込みのような安易な回答を呼び寄せているのではないでしょうか。というのも人間は手近な情報からその回答を求めようとするからです。
 問題は科学の世界においてさえ、このようの間違いを犯す可能性があり、因果関係の同定は難しいということです。