学者の役割

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20081227

経済学者が全員、景気やマクロ政策のことを考えて悩む必要はおそらくない。それどころか「経世済民」を、世の中を良くするにはどうしたらいいか、について悩む必要もない。ただただ自分にとって大事な、自分にとって興味のある問題だけを追究したって構わない。あるいは経済学者にはそれは許されないかもしれないが、数学者ならかまわないだろう。あるいは小説家でも、ダンサーでも、ミュージシャンでも、陶芸家でも、なんでもいい。何百万人が失業しようが、あるいは戦争が起きてたくさんの人が死のうが、市井の一個人にとっては「それは自分の問題ではない」ということはありうる。人間はそういう風に生きても構わない、と思う。祖国の、あるいは人類の運命よりも、自分の魂の救済のために生きても構わない、とぼくは本気で思う。

 更に言えば、魂より祖国を優先すると称する人が、実際にはたくさんの悪をなしてきて、公共に害をなしてきたのだから、ひたすら己の魂のためにのみ生きる人たちの方が無害である可能性さえある、と思う。

それでも原則的には、誰かが自分の魂よりも祖国を優先してくれているからこそ、我々凡夫は己の魂に汲々としていられるのであり、そういう人への感謝を忘れてはならないし、いざというときには自分もそうやって祖国に奉仕する運命に襲われてしまうかもしれない、くらいのことは考えておくべきだ。(この辺の物言いは田島正樹先生や永井均先生を念頭に置いている。)

(引用者、強調)
 
 これは心理学でよりあてはまる気がする。実験心理学と臨床心理学は別個のものと考えられるほど乖離してしまっているからだ。
 実験心理学では、自分にとって興味のある分野だけ追求すればよい、という人が結構いる。「カネになる研究」、「役に立つ研究」をやたら嫌悪する人がいる。
もちろん、基礎研究分野が役に立つかどうかのみによって評価されるべきではないし、役に立たないからこそ大学という必ずしも営利でない機関によって場所を与えられている理由だろう。
 しかし、だからといって臨床や応用分野を、ましてはそれに関連する基礎分野をあたかもけがれたものとするのはおかしい。基礎研究が有用性を第一にしなくとも、100%社会の役に立たないなら、いくらだ大学とはいえみんなの税金によってるのだから、その存在意義はないだろう。大学から給料をもらっている限り、そのようなことをいう権利はない。
 一方で、目先の役に立つかどうかという視点しかもたない人もどうかと思う。問題解決を重視したとしても、近視眼的な解決志向のもとでは限界がある。既存の理論、方法の使い方についての学問は必要だろうが、そこから新たな理論や大きなブレークスルーは生まないだろう。逆に、ひらすら実験室にこもって原理の発見に血道を注いだ人が、のちのち臨床で多大な貢献することはよくある。応用系、臨床系の人は基礎研究を頭でっかちなどとばかにすべきでない。
 ということが基礎心理学者が言うべきことだろう。基礎研究には有用性など知るもんか!ということで、逆に学問は有用性が第一でやっぱ工学系、臨床系だよね、とする人たちを利することに気付くべきだ。有益でないことは社会的に受け入れにくいので。つまり、むしろいつか役に立つということをアピールすることによって、実は役に立たない研究をすることができるようになると思う。
  また、ひたすら己の魂のためにのみ生きる人たちの方が有害である可能性も十分にある。認知科学と軍事技術の結びつきは指摘されてきた有用性を無視することはそうした可能性に鈍感にさせる。何も原爆のように有害なものとの結びつきがはっきりした技術ばかりではないのだから。
 ここまでいかなくても、心理学には特有な問題もある。臨床心理学の非科学性に関するものだ。現状、特に日本で実験心理学に基盤をもたないもしくは反する臨床が非常に多い気がする。精神分析とかが普通に心理学科と言われているとこに入ってたりする。実験系と臨床系両方が入っている大学はよく対立しないな、と思うが互いに無関心なだけだろう。臨床にコミットしてないくせに何を、といわれそうだが、実験心理学であきらかに間違ってることは指摘すべきだ。
 いや、臨床は科学的妥当性よりも、実際に目の前の患者、クライアントを治すことが重要だという意見もあろう。ならば、エビデンスに基づいて各方法論を有効性で比較している必要がある。たとえロールシャッハテストで、統合失調症の診断にコインを投げるよりは有意な差で判別できたとしてもそれはその方法をやる必要条件とはいえない。MMPIと面接でより効果が得られるならそちらをやるべきだろう。また、有効性を考える際、もっとも重要かつ見落とされがちな点が経済性、オプチュニティコストの面だろう。10%くらいの成功率の方法と80%くらいの方法ががあったとして、前者もある程度有効だからやってもよいと言えるか。前者を試すことは、それをやっている間後者をするチャンスを奪ってるいるのと同じだ。治療はそんなすぐに終わらないから(えてして成功率の低いほうが時間もかかる)、やっぱだめでしたとなった時には手遅れなことも少なくないだろう。養成コストの面もある。仮に精神分析が、他の精神療法と同等の効果があったとしても、その養成にかかる時間的金銭的コストが比類ない規模ならば、別の方法にとって代わるべきだ。有効性を語るなら、比較が前提条件である。
  ところが比較がされても、有効性で場合分して方法を変えることは難しい。これは原理的に排他的な方法が多いこともあろうが、主に最後の養成の面にかかわると思われる。精神分析にしろ、家族療法にしろある方法で一人前として認めらるにはかなり時間がかかる。一つの方法に多大なコストを払うことによって、臨床家にその方法だけを選択させる。
 ただ有効性の比較の研究はそれとは別にできるからもっとなされるといいと思う。そしてそれに基づいて制度的な援助、大学のポストなり科研費なりが決まればいいだろう。
 しかししかし、心理学の場合、他人の問題が大事だといって臨床に来る人の多くが、その実、己の魂の救済を目的としている場合が多いんじゃないかという点。そういう人たちが有用性よりも、自分の興味に従って臨床をやろうとしているのではないかと考えると、臨床心理学の現状に納得がいく。いや、ただ私が感じているというだけのことだけど。  





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