「空気」も読み方によっちゃよい。「甘え」と言語

土居健郎が死んだ。個人的にはたいして注目もしてなかったので
http://kasega.way-nifty.com/nikki/2009/07/ky---8f1a.html

 つまり、日常語としての「甘え」のことと安易に同一視されてしまい、なぜ、土井先生が「  」つきで、『甘え』と表記したのかということがすっ飛んでしまったままだと思うのです。
 私なりの理解を解説すると、土井先生の言う『甘え』とは、
「自分の中に生じてくる欲求を、自分から主体的に相手に言語的に明確に伝達することをしないまま、気持ちを『汲んで』もらい、『察して』もらおうとする、他者との関係性の様式」
を指します。

というのはなるほどと思った。ようはコミュニケーションのスタイルを問題にしていたということか。でもそうすると言語ってものをせまくとりすぎじゃないだろうか。気持ちを『汲んで』もらい『察して』もらうというのは、何もない状況ではできない。それなりにサインがあってはじめて「察して」もらえるはずだ。この場合、サインは、ある程度「言語」の役割を果たしていると言えないだろうか。
 やや視点を変えるが、たとえばいくつかの動物の種でもコミュニケーションをとっている。イルカにせよ、ソングバードにせよ、人間の使う言語を用いていないが、彼らの社会の中である程度適切にコミュニケーションをとっている。動物は、言語的に明確に自分の気持ちを伝えていないから甘えているのだろうか。
 また、たとえば私の知り合いに初めて人あって印象を悪く取れてそうになったときに「一期一会だから、なんと思われてもいいとおもって」といったことを言う人がいる。一回きりしかあわないんだからどうなってもいいという、通常の意味とは正反対の使い方をしている。しかし、彼女らのうちわのなかではこれで十分通じる。
 土井が問題にしたかったようなコミュニケーションの問題性は、「言語によって明確に伝える」ことができないからなのか。いわば言語化しないサインのような言語は、ローカルな範囲においてはやはり言語であり、伝える方法としてそれほど問題ではない。問題になるのは、その範囲を超えたもの同士がコミュニケーションするときだ。そのためにローカルでない標準語があるといってよい。しかし、それはローカルな言語の使用や、「空気を察する」ことを否定しなければならないのか。より普遍的な場面で、ローカルな領域で通じない言語を用いるのはダメだというのと、ローカルな言語の使用そのものがダメだというのは別の話。