中絶すると破門〜従ってない教義に文句をいう意味不明さ

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51265349.html
9歳少女が継父にレイプされ妊娠 → 大司教「強姦よりも中絶のほうが大罪だろ・・・宗教的に考えて」


中絶に絡んだ事件でカトリック司教の判断に賛否 - あんとに庵◆備忘録

しかし俗な世界の概念では、この場合は「母」を助けるのが情として正しいと判断する。それは間違ってはいない。わたくしもそう判断するだろう。しかしそれによって失った命の責任は持とうよということではある。ただし、この場合はどーもそれすらも後味が悪く難し過ぎる事例ではあるのだが。

カトリック教会が堕胎に厳しいことぐらいみんな知っている。ローマカトリック世界では自明の事柄である。しかし関係者達はそういう教会などそもそも無視しているわけで、破門されても無視していればいいだけで、げんに関係者も「だからどうした?」的反応。一貫している。メディアのみがカトリックの頑固っぷりを問題にしている。よっぽど教会を俗化方向に変えたいようで、この手のリベラルマスメディアの傲慢ぶりってのも実はわたくしはどうよ?と思う。

 一言で私のいいたいことを言うと
したがってない教義に、文句いってどうする?
ということなんだが一つひとつみていこう。

第一に、中絶が悪、というのは、胎児を人間だと考えれば、それほどわからないことではない。乳児を殺せば殺人である。たとえば、極貧のなか、自分だけ食べ物を食べ、乳児に何もやらなかくて死んだとしたら、警察に捕まるだろう。 自分の生存が脅かされているといって乳児を見殺していいはずがない。
 いや、乳児と胎児は違う、というかもしれないが、じゃあ何が違うのか。法的な違いしかないのではないか。人間かどうかという点において、乳児と胎児にバリアな違いはない。中絶擁護論というのは論理的に矛盾しているが、実感としてしょうがないと感じさせるもの。一方中絶反対論は、確かに論理としてはそうだが、実際に受け入れるのは困難。どっちかにすっぱりきれるようなもんじゃない。こういう中絶問題などは、ものごとを一面的にしか見れないやつかどうかの試金石になるな。
 第二に、この破門を非難する人って、いったいどんな立場から批判しているんだろ。だってカトリックじゃないんだろ。じゃあだまってればいいじゃん。なんでカトリックの教義、方針なんて普段全然関心がないのに、教義がおかしいなんて批判できるんだろう。もちろんカトリックの人が批判するのはわかる。しかし、非信者が「破門は厳しすぎる」ってね。
 よーく考えるとこのカトリック教会の処置、というのはあくまでその宗教界のなかで閉じているものだ。破門という処置がいかに厳罰のように見えても、一般社会の法を犯す行為ではない。「中絶はけしからんから集団リンチした」というのではないのだ。
 じゃあなんでこの破門に反感を覚えるのかというと、「悪くないこと」をしたのに「悪い」とみなされ処罰されたからだろう。しかし、そもそも一般社会と宗教は「悪い」ことを完全に共有しているわけではない。また、そのことが即問題となるわけではない。もともと宗教と社会はずれている。もちろん、宗教の善悪の方針が一般社会の方針からいって問題となり、一般社会が介入しなければならないときはある。その点で宗教も最終的には一般社会の方針に従っていることになる。たとえば、上の例だと「中絶した女子やかかわった人を集団リンチにした」という場合なら警察に逮捕され一般社会の法から裁かれる。
 しかし、それは宗教の処置が一般社会の法を犯した時だけだ。一般社会の常識、感覚から宗教の教義、方針に文句をいう、というのは、そもそもその宗教にコミットしてないのなら意味不明。つまり、宗教の方針に文句がいえるのは、それが一般社会の法や方針を犯したときだけで、それ以外について、教義に文句をいうのは、教義にはじめからしたがっている(従おうとしている)人だけ、ということになる。

 まあ、「異端にするのは厳しい」とかも同じ。いくらへんな教義があろうと、自分がそれに従ってないのならいいじゃん。またしたがっている人は自分の判断で従っているのだから、それもいいじゃん。それでも「従っている人はその教義だとかわいそう」というのなら、めっちゃパターナリズムじゃん。その人はうまく判断できないから、私が判断してあげる、ということでしょ。ということで中絶絶対反対派を批判しているようで、自分の正義を他人に押し付けようとするえせリベラルぶりが判明した。
 こういう世俗と宗教の分離すらろくに理解できない人が多いとしたら、高校世界史とか教える意味無いじゃん。
 単眼的なひと、いとおおし。