「感情」より「論理的正しさ」が狂気を生む(jura03について一言)
jura03について一言
疑似科学批判批判で知った人は、なんていい加減なことを吹いてるやつだ、という印象だろうけど、それより前から読んでいるものからすると
彼のブログは何に対してもあんなかんじだ、ですよ。自分のブログを棚においてなんだが、彼のブログは石、石、石、たまに玉という玉石混合エントリがメインなので、はてぶの反応は何をいまさらという感じではあった。
それよりちょい前から読んでいる私としては、ああなるほどというのをセンテンス単位で探して読む、という読み方をしている。
それ以上たんねんに読む必要はないし、まして律儀に反論するのはばかげている。
また、彼をその他のニセ科学批判者(あんま知らない)と一緒くたにするのもどーよ、とも思う。彼なりに一貫した問題意識で書いているのをなんとなく知っているからだ。そんな問題意識がかかいま見えるものを一つ紹介しよう。
論理的正しさが狂気を支える
http://d.hatena.ne.jp/jura03/20090124
じゃ、何で殺さなかったかというと、そりゃあ自分の身が惜しいものねえとか、迷惑かけるもんなあとか、あのバカにも一応娘がいるからなあとか、そういう諸々のことを考えてやっぱりやめとこうと思った。生物的に、せめて社会的に抹殺させる方が世のため人のためなのは明らかなんだけど、難しい。そこのところを突破する理屈が組み上げられない。僕の粗雑な頭では。
たぶん、論理的思考が妙に精緻な頭のいい人は、そこの難しいところを突破する理屈を組み上げちゃうんじゃないんですか。
プラトンの昔から、合理性とか論理性とかいうものは、より正しいものを導くための道具として扱われた。従って、論理性を利用した瞬間に、無条件に一定程度の正しさをうちうちに含んでしまっている、意識はしてなくてもなんとなくでもこれは正しいんだろうと思える。論理それ自体、ある正しさを保障しているかのような錯覚を抱きやすい。
まして頭がよくて論理に卓越した自信を持っている人は、自己の絶対的な正しさに確信を抱きやすくなる。自爆テロをせねば世の中が変わらない、その捨石となることに何の躊躇することがあろう、論理的に正しいことをやるだけなのだから。ここから実際の行動へと飛躍するまで、苦労はたいしていらない。かくて狂信者と高等教育を受けた頭のいい人とが同居する。
。。。のではないかなあと。人間は理屈だけで生きているのではないから、適当に判断するには純粋な理屈だけではダメで、そこにレトリックだったり思いつきだったり、要は不純物を混ぜていかなければならない。
こないだThe Economistの書評を眺めていたら、大恐慌時代の各国中央銀行総裁伝みたいな本が紹介されていた。つらつら読むと、イギリスだったかどこの中央銀行の総裁か忘れたが、俺は理屈(ration)では動かん、本能(instinct)で動くのだと言うような人だったとあって、思わず茶を吹いた。本能ってか、日本語なら直感のほうがいいかもしれない。セントラルバンカーがそんなことではいかんだろと当然考えるわけだが、個人的にはここまで開き直ったオジサンを嫌いになれない。その方が、むしろ人間らしくて好きかもしれない。
どっちかというと自他共に認める論理大好き人間な私は、大いに啓蒙されたよ。