「ディベート」はネットでやっても無意味

http://d.hatena.ne.jp/Himez/20090129#c1233942399し、
で貴重な意見。

‘Debate’ では議論を開始した時点で既に結論が決まっておりそれに対立する主張は最初から誤りであると看做されますから話し合いは必然的に軽信的態度に於いて行われるでしょう、そして返答は反論に限られるので勝敗は決しても思想の面では双方共に最後迄平行線と云う事になる恐れもあります、この意味で自己目的化した批判行為は知的惰性の産物に他なりません。批判する者もそれに応える者も、相対立する主張――併し確かに己が信念として根拠を有する主張――を両立させむとして弁証法的な批判を積み重ねて行くことこそが知的対話に生命を与えるのだと考えます。

 さらにつけ加えればディベート弁証法的な「知的対話」は目的がことなる。前者の目的は、第三者であるジャッジを説得すること。後者は、相手の説得や自分の理解の深化といったところか。ディべートでは、相手を説得しないため、ジャッジがいないと意味がない。
 リアルな世界ではディベートも無益なわけではない。頭が鍛えられる。肯定側、否定側とも同じ時間が決められているからだ。限られた時間中で自分の主張を守り抜き、相手を攻撃することで頭の回転がはやくなる。また、ジャッジは過去の優秀なディベーター(自分より優秀な人)がなるので、かなり客観的な判断が下る*1
 しかし、ネットでは時間も無制限だし、優秀なジャッジもいない。だから上記の利点は得られない。よって無意味。

*1:大学などでやる英語ディベートの場合だが