そもそも茂木のクオリア論は
いまさらながら茂木健一郎についていろいろ見ている。
で、TV出る前は、じゃあまともだったかというとそうでもないというのが、本をみた印象。
割と最近出たのは、もちろんやばいだろうが、その萌芽はすでに初期の著書にも表れている。
以下の本について、私がちょっと見た限りでおかしいと思うことを。
- 作者: 茂木健一郎
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 1997/04/24
- メディア: 単行本
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しかし、それ以前として彼のクオリアのとらえ方の問題点を指摘すべきだろう。
じゃあ、クオリアについて、彼がどういう意味で使っているかというと
という、まあ割と一般的な意味で定義している*2。ここで注意がいるのは「シンボルで表すことのできない」という点だ。クオリアはあるとは言えても、それを言語で記述することはできないものだ。だってく言葉で表すことはそうした時点でどう頑張っても一般的なものになってしまうから。
たとえば、自分の皮膚をつねってある感覚が生じたとする。その痛みを感じた瞬間「痛い」といっても、それを聞いた他人が自分の感じた感覚を感じることはできない。今この瞬間感じている原始的な感覚は、確かにあるといえる。でもそれを他人に説明できない。説明した瞬間、それは自分にも相手にもわかる「痛い」であり、自分だけがさっき生生しく感じていた感覚ではない。
クオリアは、言語以前のもので、いくら「あのなめらかではっきりした…」と形容詞を駆使しても他人に伝えることはできない。
茂木は一応この考えは理解しているようだ。しかし、
クオリアは、心の持つ属性の中でもとりわけ主観的な色彩が強いが、それでも、それがニューロンの発火によって引き起こされる以上、その成立のメカニズムは、自然法則の一部でなければならないのである。
という。これがたぶん本書の中心的主張だ。クオリアは極めて主観的だがそういうものを含めた脳のメカニズムを解明しなければ、心を説明したことにならないというのである。
これのなにがおかしいのか。
ニューロンの発火がすべて法則化できると考えている点だ。
第一にニューロンの発火を法則化する前提としてクオリアは分節化されていなければならない。クオリアA、クオリアB、クオリアC…それぞれについて、ニューロンがどのように発火するか調べなければならない。しかしこれは無理だ。だってクオリアは言語化できない、分節化できないものだから。分節されないものをどうやって法則化するのか。それは難しいとかじゃなく不可能である。もちろんクオリア全般についての法則ならいくつか発見できるだろう。しかし、今感じているこのクオリアと別のクオリアを派生させているメカニズムはわかりえない。
第二に科学の法則というのは、自然物と必然的なつながりがなければならない。もちろん主観的感覚でも、ニューロンや外界の刺激と必然的に生じるものはあるだろう。たとえば針を皮膚にさして神経伝達物質が脳内で流れたとき「痛み」を必然的に感じるといえるだろう。しかし、それは他人と自分に共通なもので、クオリアではない。だってクオリアは今この私にたまたま感じていることであって、ある場合に必ず感じる体験ではないから。
以上、クオリアは自然科学で説明できるものじゃない。これは難しいとかじゃなく、定義上不可能だから。
もちろん、他人の行為や感覚をクオリアという概念を使って説明できるものではない。
クオリアが活発化するとかそういうたぐいのものではない。
そういう点に気づいてか気付かなくてか、神秘的な香り漂わせてこの単語使いまくったのが現在の状況。
つまり茂木は、すでに初期から著書で、科学ではいえないことを(科学として)語ろうとする傾向があったということ。その結果、現在科学者のタイバでTVで適当なことをいってしまう状況があるのだろう。
(参考)
機能主義とクオリアについては蒼龍さんの俗流クオリア批判 http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20071114/p1
自然物との必然性については、認知科学者の中西さん http://midw.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_e080.html
を参考にした。
あと伊勢田氏との対談 http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-98e8.html