自由主義と功利主義のバランス

http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20090206#

ソーシャルサイコロジーのクラスにさ、中途半端に頭が良いやつがいてさ、若いやつなんだけど、すんげー衒学的なやつでさ、授業中に質問しすぎてたりさ、なんかあるとすぐ自分の知識とか見識をひけらかそうと必死になってるやつがいるんだよね。(中略)

で、この事件を境に思ったのが、個人主義か統制なのか?って話ね。ようはさ、この馬鹿が質問しまくるっつーのも迷惑な話なんだけど、でも一応ソーシャルサイコロジーに関係のあるトピックだったら質問をする権利があるんだよね。かといってそれを放任しすぎると調子に乗ってこいつの独り舞台みたいになるからさ、そこで先生はこの生徒に「ちょっと質問が多過ぎるからやめてくれない?」って言わなきゃダメだよね。でもさ、そこでなんつーかどの程度まで質問を許すか?ってかなり難しい問題だよね。ようはこいつが質問をする権利というのはあるんだけど、それを行使しすぎるとクラス全体に迷惑がかかるっつーか、露骨にこいつを嫌ってる他の生徒とかって多い感じだからね、明らかに迷惑してる人達がいるのよ。

tm 2009/02/06 20:10
すみません。共通善とか社会科学系の知識なんてまったくないんですが、ちょっと疑問に思ったので書かせてください。なんか、第6パラグラフで、「個人主義とか権利だっていうのを言い過ぎるとバランスがおかしくなる……そこに数人の個人の自由が犠牲になっていても、クラス全体というのを考えた時に結局それは共通善あってのクラスだから、そいつの自由なんてどうでもいいって話になるんだよね」と記事にあるのですが、これでは共通善というのを「公共」もしくは「全体の利益」という意味に強調しすぎて、全体主義と変わらないことになってしまうのではないでしょうか。意味するところは同じなのでしょうが、「権利相互間の衝突を調整するためには、個人の権利も一定の犠牲を被らなければならない」と表現したほうが、個人の利益を犠牲にしても全体の利益を最優先にするという悪しき弊害を思い起こさなくていいというかしっくりくるというか……おそらく私の読解力と知識が欠如していることからくる疑問なのでしょうが、なんかこの記事は危険な面を含んでいるのではないかなあ、と思ったしだいなので書き込んでしまい

こういうのは「何について」バランスをとるのか、によっても変わってくると思う。授業についてだったら、自己主張してすっきりする、虚栄心をみたす(個人の)権利などいったいどれほど重要だというのだ。授業を円滑に進めるのを優先してもほとんどの人はしょうがないと思うだろう。一方で、命についてだったらどうだろう。たとえば、10人が乗った船が転覆したが、救命ボートに9名*1しか乗れないとしよう。「9名の生存のために1名が犠牲になるのはしょうがない」といえるだとうか。もちろん、いえるけど、それってそんなに自明なのかって話。少なくともボートに乗って助かった人で「あれはしょうがない」とさらりというもんなら、私は反感を覚えてしまうだろう。9人が助かることは正しいのだけど、正しい気がしない。福耳先生事件を思い出した。

(追記)旧約聖書のヨナのはなしだと、嵐を静めるためにヨナがくじ引きで選ばれ、海に放り込まれた。くじ引きってのはどうなんだろう。だしか加藤尚武氏はくじ引きもだめだ、みたいなことを書いていた気がするが理由がいまいち理解できんかった。
いろんなバリエーションがある。こうしたいかなる属性も捨象して、「個人の命」として扱うのが自由主義ってもんだ。
1)10人のうち1人は犯罪者だった
2)10人のうち1人は深刻な病を患っていた(福耳パターン)
3)10人のうち1人は男性だった。
4)10人のうち1人は女性だった。
5)10人のうち1人は子供だった。
6)10人のうち1人は平社員だった(あとは重役)。

*1:別にシャレはねっらってない。いやほんとに。