「こころ」の本質を語ることの無益さ

http://d.hatena.ne.jp/kubi0213/20090119#p1
ここで取り上げられている以下の本。

「こころ」の本質とは何か (ちくま新書)

「こころ」の本質とは何か (ちくま新書)

未読だがそうとう気になるところがある本。

著者によれば、実証を重視する正統精神医学の隆盛の影で、人間学精神病理学が退潮して久しい。前者においては、人間は合理的であるという前提があり、それゆえに「正常」と「異常」の間に絶対的な相違があり、非合理のものは「障害」と見做される。後者においては、人間は非合理であるという前提があり、それゆえに「正常」と「異常」が峻別されることはなく(たとえば、統合失調症における幻覚について、人間一般が有する可能な能力の発露であると捉えられている箇所が本書にはあります)、

「正常」と「異常」に絶対的な差があるわけでわないという視点はたしかに重要な点です。が、それって実証を重んじる正統精神医学がもってない視点なんですかね。DSMにしても、その特徴は操作的定義ですよね?絶対的にこの病気が存在するってんじゃなくて、こういう症状をもった場合はこういう風に診断しましょうってことでしょ。あるラインで便宜的に障害、非障害のラインを引いている。もし「正常」と「異常」に絶対的な差があると考えてるなら、「正常」「異常」の境界を便宜的に決めてよいはずがない。「異常」を「正常」との連続体でとらえないことと、実証の重視とは関係がないわけ。実際、たとえば自閉症は、DSM-?では自閉症スペクトラムとして健常者との連続体でとらえられています。

論考が進むにつれて、「共同性」が通底的な検討対象として浮上してきます。それぞればっさりと纏めるならば、統合失調症においては、共同性への底知れぬ恐れや畏れがあり、共同的な認識世界の意味が動揺する。精神遅滞においては、共同的な認識世界の意味の獲得が後れ、共同的な認識世界への参入が困難となる*2。自閉症においては、共同的な関係の獲得が後れる。不登校においては、登校を支え促した共同性が我々の社会では喪失した。高度な社会性が求められる我々の世界では、統合失調症精神遅滞自閉症不登校においては、このようなかたちで共同性と個体性の矛盾が形成されると考えられることになります。アスペルガー症候群について、「いまの社会だからこそ『障害』化したとも言えないでしょうか」と言及されています。

なるほど、ある機能が不能なことへの意味付けが、その社会によって変わることは往々にしてあるでしょうし、現代社会でコミニュケーションが重視されているのも確かでしょう。しかし、この記述は非常にミスリーディングです。まず「自閉症においては、共同的な関係の獲得が後れる」という点。まるで遅れながらもあとで「共同的な関係」が獲得できるかのようです。しかし、程度にもよるが年をとったら自然に自閉症児が社会性を持つなんてことは限りなくないわけです。だから「遅れ」という表現はまったく的外れ。基本的な知識がかけている。実際(amazonレビューより)、発達論で自閉症をとらえようとしている*1

P155
 以上のごとく、なんらかの精神機能にハンディキャップを見いだしたとき、その精神機能がどんなプロセスで獲得されるのかの発達論的な吟味を怠るところに、ラターからバロン=コーエンに至るまで、現代の主導的な自閉症研究の弱点があります。そのため実証から解釈への思弁が逆立ちになるのですね。

 発達心理学をかじったものなら誰でも知るような基本的な知識の理解を怠るところにこの本の根本的な弱点があります。1970年代ならいざ知らず、これは2004年に出版されている。非正統な精神医学をやるのは勝手だが、自閉症に関する最近の研究を無視して語るのは百害無益でしょう。

 あと自閉症は脳の機能異常から生じる先天性の病であることは明らか。それを軽視して様々な要因がある統合失調症、症状というより生活パターンである不登校などと同列に扱ってるのは誤解を生みます。心因性の病気ではないのははっきりしているのにこころの問題に還元してるようにみえる。(もっとも症状を見かけから分類したというのであれば、それはDSMと同じ発想なわけですが。)
 
また障害を肯定的にとらえるのはいいですが、自閉症は早期介入(3歳くらい)で半数が治り、残りの多くもコミニュケーション能力などが改善することがわかっています。トレーニングによって改善できるのに共同性の病などと本質化するのは問題です。改善して社会をよりよく生きられるならそうするべきでしょう。それと生きづらくしている社会を改善するのは十分両立します。
 

基が講義録であったためか、平易な文章である。それでいて、大変おもしろい。おもしろかったです。著者は精神科医

 統合失調症精神遅滞自閉症不登校を簡潔に紹介しながら、同時に自身の考えを述べていく著者の手際は、心理屋にはぞっとするほど魅力的です。

 文学や哲学でないのだから、おもしろさから発達障害精神疾患を語られてもね。そういう精神科医が権威をもつのも不思議。
もちろん、「正常」と「異常」の連続性や「障害者」の肯定は大切な視点。しかし、「こころ」の本質などといたずらな思弁を持ち出さずに、社会学歴史学的分析から語ってほしいことだ。
 すくなくとも治療や改善を目的としてるなら、わかりやすい、おもしろい形で精神疾患発達障害を分類することは無益である。
また治療や改善を迫る社会を問題にするのであれば、「心」を持ち出す必要もない。

参考 
http://homepage3.nifty.com/kazano/dsm.html

*1:むろん、障害というのはある地点においてその年齢の健常者より劣るということでもあるから、成長とか発達は重要な見方。でもこの人のはそういうレベルではない。