選挙の投票は宝くじのようなもの

 世の中には宝くじをばからしい、といって買わない人もけっこういる。払う金が期待値を余裕で越えていることを知っているからだ。私もその一人で、宝くじで当たると思うのは気休めか、一種の宗教くらいに思っている。ところが政治の投票となると、そうでもない。

ゲルマン:カプラン「選挙の経済学」の書評 - P.E.S.
一般的にいって、大規模な選挙においては一票が選挙を決める確率はゼロに近い。たとえばGelman, Silver and Edlin (09)によると、アメリカ人の一有権者が大統領を決定する確率は、州ごとにことなるものの、平均して6000万分の一、ニューヨーク、カリフォルニア、テキサスなどの人口の多い州だと、10億分の1になるという。こういう低い確率では、たとえ選挙結果からの利得がどれだけ大きくても、投票の期待利得、利得×確率、もほぼゼロになる。投票に行くコストは低くともゼロではないから、シンプルな合理的選択のモデルだとみんなが投票にいくなら投票に行かないのがお得ということになる。ところがもしだれも選挙に行かないなら、投票によって自分が結果を決める確率は1だから、投票にいくべき、となる。でも、みんなが行くなんら...というパラドックスが政治経済学にはある。

 これをパラドックスというのはいかにも経済学らしい、荒い議論だなぁと感じる。個人レベルでみれば、投票に誰も行かないという状況はまずないというのを知っている。投票に多くの人が行くのは、そのパラドックスを意識してというより、むしろ単にコストが期待値を越えているということを意識してないがためだと思う。つまり、宝くじや投資のようなシビアな観点では見てないのだ。いや、宝くじでさえ、あれだけ売れるのだからシビアには見てるとは言えない。宝くじは「コスト」と「期待値」がともに数量であらわせるが、選挙では、「コスト」の種類が、お金ではなく習慣的な行動で、「期待値」が自分の押す候補者の当選×確率で、比較の基準が判然としない。いわんや投票において、コストと期待利得なんて観点をもって投票なんてしてないのはかなり自然じゃないか。
 むしろ投票に行く積極的な場合がある。「選挙日に投票所に行って投票する」ことに対し完全に習慣化している。あるいは投票行動そのものに何らかの意義を見出しており、報酬化している。後者は、毎回投票に行く、受かる可能性の低い少数政党の支持者の行動を説明する。前者は、より多くの人の投票行動を説明する。
 1年に1つでも宝くじを買う人の割合とは全体のいかほどか。それなりに多いとすれば、どんな選挙でも30%くらいの投票率があることは不思議ではない。